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NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

幼稚園時代に形成された世界と言葉

私が何故言葉にこだわって書くことをしつこく続けているかに行き当たりました。いくらか記憶が出て来たので書いておきます。幼児期の話になります。

どのくらいこだわっているかですが……。
 
今の私の文章は薬の離脱症状に見舞われながら書いているのであまり推敲もできないし、決してうまくはないですね。普通ならこの状態でブログなんか書くものではないのかも知れません。他にすることもあるし、余力があって書いているのではありません。今のところ、かなりやり過ぎの状態だという自覚はあります。

それでも私は習慣化するほど書いています。
書く練習というか、まともな文章力が欲しいのです。書くことをもっと自在にしたい。言葉が扱えるようになるので、現実の人と話すことに凄く影響するんです。字数を削るとか重複を避けるとか表現を変えるとか1文の長さとか、ひとつの文章が一貫性あるかとか、いくつかのポイントを意識し始めていたのですが、これは話すことを整理できるようになりますね。もちろん、文字でのやり取りも上達します。(当たり前ですが)
 
私は人からはあまり会話に不自由しているとは思われません。むしろ相手が言い返せなくなるまできっちり話すと思われてしまうことが多いです。わかりやすいとか言われることも多々あります。アスペルガーとは思えないとか、そんな障害があるように見えないから大丈夫(?)等々。
 
いずれも、元は望まない訓練の結果です。
 
私は発達障害者(アスペルガー、現在の呼び方は自閉症スペクトラム)で、話し言葉にはかなり苦労しました。幼稚園に入っても私から何かを言うことができませんでした。言葉が出て来ないのです。
親によれば、私に字を教えたことはなく、私が3歳から勝手に絵本で字を覚え、書き物をするようになったそうです。私は幼稚園で色々と詰め込み型の勉強をさせられた世代なのですが、読み書きは入園前にはできていたようです。幼児期に私が書いた物は実家にそこそこ残っていました。
 
でも、私はしゃべれませんでした。聞いたことは親から見たところ理解できていたそうですが、会話というコミュニケーションはないままでした。
 
何歳で話すことができるようになったかはっきりとはわかりませんが、幼稚園の時にちゃんとしゃべっていなかったことは記憶にあります。ろくな意思の疎通ができずに私がギブアップしてしまい、泣いてばかりで、先生をかなり困らせたし、周りの園児達にはいつも責めるような口調で物を言われるように感じていました。そして私は何か言われても返事(回答)ができませんでした。何が言いたいことなのか自分でわからないし、表現が出て来ませんでした。とにかくいつもいつも泣き出してしまう。頭で状況をシミュレーションして、何かしら訴えたいのですが、本当に簡単な言葉しかその場では出ません。単語で話しているのに近かったのではないかと思います。
 
どうすればその時にしている作業ができるのかわからなくなることがよく発生したのですが、それを訴えるための言葉を発するまでかなり時間がかかりました。どう言えばいいかわからないので、説明するために状況を考えているうちに「できない」という事実しか頭になくなってしまうのです。それで絶望的な気持ちになって「できない」と言いながら泣き出す。それ以上はいくら考えてもただもう無理だとしか思えないので、何か聞かれても説明しようがありません。
ただ、何故そうなるかは、このままでは飛躍気味に思えなくもありません。
 
例をあげると、着替え、工作、楽器の演奏、カトリックの幼稚園なので教会で祈る時間があったのですが、合掌している手が冷たくて辛いことを言いたい(冷え性のようでした)、体操(体育)はできないことのかたまりでしたので(身体が酷く不器用だったのです。発達障害で言うと動作性や「目と手の供応動作」が凄く低かった)その時間自体が死ぬほど苦手で、周りの園児が楽しそうなのが理解できませんでした。体育の先生は今考えるとかなり優しいお兄さんだったと思いますが、当時は大声でできないことを迫る怖い大人でしかありませんでした。階段を降りることもおぼつかないほど身体が不器用でしたから(後に足が少し悪いと発覚するのですが、それは高校生の時でした)、歩くのも怖いくらいです。ですから外遊びはもってのほかです。ですが、それらをどう訴えたら良かったか。手順がわからないというのもありますね。歩く動作にさえ混乱するのですから、本当にできることがなかった。
 
着替えで思い出しました。
 
幼稚園は制服で通いますが、着替えにもたつくので、家では怒られながら着替えさせてもらっていました。私が自分でしていると時間に間に合いません。「お姉ちゃんなのに恥ずかしい!」と毎日怒られました。他の日常的なこともたくさんできなかった。親は辛抱強く待つたちではなかったので、私はいつも怯えていました。パニックになってできないと叫んで泣くしかできなかった。また怒られる。そうして悪循環ができていきました。

「怒られる」恐怖があるから、コミュニケーションや挑戦をする前にパニックになってしまい、そこから思考も何もロックされた状態になるのでどう言えばいいかどうすればいいかはわからなくなり、絶望でいっぱいになって泣くだけ。外の世界でも私は怒られるようにしか行動できなかった訳です。周りには何故私がしないのか、しゃべらないのかわかりません。それで泣いているだけなので、甘ったれているとかいう解釈になっていくようで、だからいつもいつも責められ怒られたのです。幼稚園は大嫌いでした。毎朝門柱にしがみついて泣いて、入るまいとしていました。嫌いというより、怖かった。

コミュニケーションがまともにできませんから私は独りでばかりいました。幼児期に誰かと遊んだ記憶はありますが、からかいや明らかないじめ行為を受けたり、非難されることになったことばかり思い出します。独りで本を読んだり粘土細工やお絵描きに没頭していました。誰かがその繊細な大事な世界を壊すように入って来て乱暴な行動とマシンガンみたいな言葉を浴びせてくることに、私は耐えられなかった。
人とは接触したかったのですが、持っている世界の認識が全然違ったので、できなかったのです。共通の言語がない。誰ともありませんでした。もちろん家族も仲間ではなかった。父にはよく遊んでもらっていたけれど、父が私達子どもに要求した理解度の水準は高過ぎました。私は6歳の時には父が作った小学校中学年程度の問題を解いていたし、それが可能であれば、他のことのレベルもそのくらいだと思ったのでしょうか。私が父に合わせていた感じは覚えています。子どもに甘いようで、いついきなり癇癪を起こして怒られるかがまるで予見できない人だったからです。
 
私は両親に見放されまいとして必死に彼らの機嫌を取り、彼らが怒るのを防ごうとしました。子どもですから、養育者から捨てられたら生きていけません。私は本当にそれが恐ろしかった。
でも、怒りと嘲笑とが返ってくることがほとんどでした。あるいは、反応もされない。無表情に私を見て、何の返事もなく立ち去る母をよく覚えています。またはため息が返ってくる。これは本当に多くて、機嫌を損ねたらしいのははっきり示されるけれど何も言ってくれない訳で、物凄く恐ろしい行為でした。
ですが、両親とも、自分が話したいことはいくらでもいつまでも話しまくりました。年齢的に私が理解できる内容や話し方ではなく、大人と話す話し方でした。私はそれを指摘したことがあるそうですが、両親とも私に合わせて直すことはありませんでした。
相互のコミュニケーションではなかったのです。私は聞かされるだけでなく、機嫌を損ねないよう、興味あるフリを続けていました。実際は何を言われているかわかりませんでした。話題はわかるけれど、言葉遣いも内容も高度過ぎました。それでも必死についていった。楽しくはありませんでしたが、親子とは、人間とはそういうものだと思っていました。よくわからなくてもニコニコして聞く、頷く、私の感情や状況は関係ありません。早くやめて欲しくてもどれだけ苦痛でも(わからないことを延々聞かされて楽しそうなフリをしていれば苦痛です)、私はどうすれば機嫌を損ねず、喜んでくれるかに腐心していました。怖かったですから。
 
私の発語(言葉を言うようになること)がとても遅かったのも、そうなった一因かも知れません。双方向のコミュニケーションが成立することは難しかったでしょう。が、私はどんどんただの接待ロボットのようになっていきました。それは母が私をさして言ったことからそう思うようになったようです。「あんたなんか機械と同じじゃないの。食べて寝てりゃいいんだから」。そういった内容だったと思いますが、確かなぜ機械と同じかの理由はもっと列挙されました。赤ん坊なんか泣いてればおっぱいがもらえて、それで泣きやんで寝るんだから、機械みたいなもんよ、とか、いつものように機関銃のように言われる一方で、私はニコニコ頷いて聞く「機械」でした。口を挟むことができる言語能力はまだありませんでした。5歳前後ですから、親のいうことは絶対です。私に語彙もありません。何が彼らを怒らせたり、興をそぐのかもわかりません。
 
私が自発的なことを望むと状況が悪化することを学び取り、私は両親が気に入る話題や行動だけを必死で汲み取ってするようになりました。話題は聞かされまくっていたからストックしていて、あとは私が何とか聞いてもらえるような話し方をすること。ですから、私は子どもらしいであろう言葉遣いを知らないで育ちました。私の都合は彼らの意に介されるものでは全くありませんから私が合わせるしかありません。
それでも、いくら合わせても、怒られバカにされ、病気になっても放置されて死にかけ、幼稚園時代にはあまり眠れなくなっていました。キリスト教教育で死後の世界の話をされたのだと思いますが、小学校に上がる頃には死という概念がわかっていて、死にたくてしょうがなくなっていました。

発達障害由来の私の「できなさ」も彼らの理解を超えていたのでしょう。だけど、あまりに怒られ過ぎだし、3歳児に「自分達は人間だから間違うこともある」と言ってのけ、私のことはしじゅう嘲っていることはやはり異常だと思います。その人達の機嫌を損ねず、言われていない要望を汲み取り、先に叶えてやることは、私がおかしくなるのに十分な材料だったはずです。世界がおかしいまま、言語能力だけは高くなりました。彼らとばかり「コミュニケーション」し続けたからだと思います。外の世界の人とは、これでは話が合うはずありません。
 
私が基本的に独りで遊んだのは、こういう現実世界から逃げて独りでいる時間を設けなければもたなかったからかなと思います。だから誰かに侵入しないで欲しかった。だけど、自分の孤独は痛感していました。
 
生きていることが、苦しかった。
だから私は生きていない「モノ」だと思うようになって行きました。
他の人がそういう感覚ではないなんて想像できませんでした。
大人になるまで生きていると思わなかった。なんとなくでしたが、周りの大きい人達のようになる自分なんて想像できませんでした。
 
それでも本当に死にたかったのかわかりません。大人になるまで生きているわけがないと感じていました。それは救いでもあるようで、絶望でもありました。
 
私の表面的な会話スキルはこうして獲得が始まったのです。
 
何も私の意思も希望もありませんでした。
両親は私でおままごとがしたかったのでしょう。
 
これが大体6歳くらいまでの、私の世界と言葉の感覚が作られた経緯です。その後、これが私の世界観で人生観で人間観になった状態で何十年も過ごします。