NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

現状を受け入れる

減薬2週目半ば。
 
どうも昨日、フラッシュバックか、それに類するものを起こしたらしい。
 
自分の過去記事を読んだら酷い身体症状がドカッと出た。「毒気にあてられた」とか言うが、そういう感覚だった。
 
私はフラッシュバックというものを起こしたことはないらしい。記憶が鮮明に蘇ることはほぼないし、カウンセラーの見立てでは「思い出した、というレベル」。それが正しいかどうか、その時の記憶も曖昧なのでわからない。
 
昨日読み返したのは、過去の酷い記憶について書いた記事ではない。だが強烈に嫌な気持ちを吐き出したものだった。ついでにいうと、非常に読みにくかった。文章が下手すぎるという意味だ。だから余計に負担だった。
 
実際に吐くかと思った。呼吸も苦しくなったし、動悸も酷くなったし、あちこち痛くなった。慌て気味に使っているSNSのひとつに行って記事を書いている内に整理ができたようで症状は軽減した。が、相当に疲れたようで、その後、身体に力が入らなくなる症状が出たりした。
 
自分の書いたものを読み返してそういう状態になったことはなかった。勢いで書いた記事なのでメチャクチャな感じだが、SNSに書いた記事を引く。
 
 
自分で読んで本当に気分悪くなった。何書いてんだ。そしてひっどい文章。読みにくいったらない。今年の1月のとかでこの始末か。

なんかビックリした。確かに吐き出すためのブログだけど、今みたく敏感になってると毒気にあてられる。なんで4人も読者いるの、っていうかアクセスが1,000超えてるって皆様何読んでるんですか。

スゲエ。自分の過去記事で吐きそうだし凄い頭痛する。

そもそも書くにあたって自分で読み返す気はなかったんだけど、「自分が」超ストレスに感じたことをメインに書いてるんだから具合悪くもなるか。これまでならなかったのが異常だよね。

今が正常なんだろうけど、はあ……。ああ、いくらか落ち着いて来た。

記憶がもっとちゃんと戻って来たらハッキリとフラッシュバックとかいうヤツ起きたりするんだろか。今もしかしてソレ?なのか?

そうなのかも。わからんけど。

わからんけど、今のが正常だってことがいくらか救いだ。前に私の記事読んで気分悪くなった人いたんだけど、どうやら書いたことについては感謝されたようなんだよね。

だから不快なことも自分が書けるだけは全力で書くんですよ。私自身は私のために書いてるんだけど、受け取って安心とかする人がいるんですよね。私も、他の人が虐待受けたことについて書いてるブログ見つけたり、そういうことがあって前向きに生きようとして奮闘してる仲間が今一応ネット通していることはいることに力をもらってるんで。

しんどいけどね。でも、手記や自伝ってよくあるでしょ。本人は自分の気持ちや記憶の整理のために書くんだけど、わざわざお金出して読む人がいる訳です。誰かには不快でも誰かには救いだったりする。

それやってるんです、私は。
 
 
無理矢理まとめている感じだが、どうにもこういう風に持って行かないと収拾がつかなかった。
 
私に起きている様々の激しい現象を離脱症状とは言っているが、これは負担や疲労やストレスに対する当たり前の反応なのだということに気づかざるを得ない。
 
薬で抑えていたのだから、薬が減れば出るに決まっている。薬の成分が定期的に身体に入って来て「安定を保っていた」訳で、簡単に言うと減れば脳だか身体がビックリして不安定にもなる。また、何の知識もないが、薬の作用で脳に何か影響があって具合が悪くなっているとしても驚くに値しない。ただ減ったというだけでこんなに凄まじい症状が出るものなんだろうか。しつこくリンクを張っているアシュトンマニュアル(ベンゾジアゼピン薬をやめる手引書) http://www.benzo.org.uk/amisc/japan.pdf に色々書いてあるようなのだが、今私はほとんど文章が読めないので読んでいない。ほかにも資料はあるだろうがとても読めないので、ほとんど体感と憶測で言っていることは理解いただきたい。
 
ともあれ、「今が正常だ」ということを思うと症状が軽くなる。非常にわかりやすい。現状を認めて受け入れていると、自分とバトルをしなくて良い。何とかしようとして無理をするとどんどん具合は悪くなる。
 
記事を見て嫌な気持ちを思い出し、「フラッシュバック」が起きたのであれば、現実から逃げなければならず、記憶ができず思い出せない状態や現実を感じることを拒絶していた状態から、正常に近づいたと私は思ったのだ。私は当然正常になりたいのだから、受け入れられる。――今のところは。
 
今週はもう木曜日だが、月曜からずっと身体がキツい。主治医の見立て通りぴったり7日で最初に起きる激しい症状はいったん軽くなった。が、なまじ半端に軽くなったために、私は戦い出してしまった。症状が出ないためには、とか、気を紛らわすにはとか、外出しなければとか、誰かから助けを得るにはとか、今の私が支援と折り合えずにいることをどうにかしなければとか、現状をコントロールすることばかりに気持ちと行動が行ってしまった。試行錯誤をしていることは良いのだろうが、「負担にならないため」の工夫で余計負担になるようにしていた。ここに列挙しただけで自分でも酷いなと思う。こんなにあれもこれもできるわけがないじゃないか。
 
現状を受け入れられないというのは、自分を受け入れられないということだ。弱い自分、後ろ向きな自分、依存する自分を、私は受け入れられないでいる。もう自分を受容せずに罰する親はここにいないのに、今の環境はまるで実家にいるのと同じ状態だ。
 
せめて自分くらいは自分の本当の味方でいる方が、結局は幸福とか楽しさになるんだろうというのは、やっぱり身体が気づいて教えてくれているのだ。もっと自分に優しくて良いんじゃないのか。無理して褒めてもらったって何も続きはしない。身体が教えてくる速度と、何が自分には良くて何が毒なのかに、無理せずに従う方が得策だろう。
 
と、これから何度も気づき直すのだろうか。
 
「何とかなる」という感覚がない。いつも「何とかしなければ」だ。これまで生きて来れたのだから、何とかなるんだろうと思っていればいいんだろうね。
 
そうなれたら、ラクなんだろうな。
 
今は何もできないのだから、それを受け入れて淡々とできる最低限のことだけして、あとは寝てでもいれば。もう自分で自分をいじめるの、やめないか。