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NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

感情

今日、とうとう体力が底をついた。
9月26日に退院してから数えてちょうど3週間、寝込まずにもったのはここ数年にないことだから「奇跡的」な感じはする。
いつもであれば1週間くらいで何もできない状態になる。起き上がれない、スマホを扱うのも一苦労、手書き文字は書けない。
それを身近で理解する人、いや信じるというだけのことでさえ、する人は一人くらいだ。

 

2日前に同じ発達障害の友人としたやり取りの後、私は激しい動揺に見舞われた。
その感情を持て余して人にネットを通じて話そうとしたが、うまくいかなかった。
それが昨日の記事に現れたようだ。

 

今日、話そうとした相手と一応やり取りしてみたが、行き違いはどうにもなりそうにない感じがする。
私はただ、聞いてさえくれればよかった。理解できることではないのはわかっていたし、それでも苦しくてつらくて、単に聞いてくれる人が欲しかっただけだった。励まそうとしてくれたりしたのだが、そのために私は追いつめられた。叱られているような感じもしたし、動揺している状態で早急に答えを出そうとするのは、やはり「私とは」「私達とは」違うのだと感じた。

 

最近の、通常の状態の私であれば、おそらくそもそも話したりもしないで一人で泣いていただろう。
それで済ませたと思う。

 

今さっき、やっと気づいたのが、冒頭のことだ。
退院後どんどん思うように何かをすることができなくなっていき、生活は破綻し、思いつめることも多くなっていたが、何とかしなければと思っていた。ヘルパーともうまく意思の疎通ができない。他の支援機関と連絡をとることもかなりの負担だし、その前にだんだん言葉が浮かばなくなっていた。

 

よく思い返してみれば、これは自宅生活に戻ったらいつものことだった。
ただ、これまでは何年も何か行動しようと頑張ったことなどなかったので、これまでただ激しく疲弊していることに気づけなかったのだ。

 

先程Twitterで自暴自棄に見えるであろうツイートをしていたが、どうも人を傷つけたようなので、今SNSにいるのは得策ではなさそうだと思い、スマホを置いた。

 

自暴自棄とは違う気がする。これは恐らく絶望といわれるものだ。
これまでも何度か絶望して動けなくなったり死にかけたりしたことはあるが、今私はこうして記事を書いている。
だって、もうどうでもいいのだ。これまで私が気にしてきたこと、恐れてきたこと、つらく感じてきたこと、そういったもの、そして人から、私は距離を置いてみようと思っている。物理的にはトラブルだらけで、実際の生活上、距離は置けない。心の距離を置く。

 

何人かの人に「絶望してからが人生の始まり」というようなことを言われた。
思い出しただけで、だからどうだということも考えていない。疲れた。考えることはひどくエネルギーを使う。

 

そして思考は感情を作る。感情に消耗するエネルギーは膨大である。なら、考えないか、感情を無駄に動かすような思考はしないでおくことだ。考えかけたら止める。断じて止める。これは決意とかそういったものであって、ほとんど考えてはいない。理由だの分析だの意味だのそういったことを考えるのが「思考」で、私は長いことこれに頼って生きてきたが、あまりあてにしないほうがいい。どこかでみたような虚しい言葉を量産することがほとんどだから。この「言葉」は大部分捨てたほうがいいものだ。負の感情を次から次と生み出すことがほとんどだから。大抵の人はそれに振り回されて人生の大半を過ごしているようだ。私はそこから離れておきたくなった。

 

この仕組みの説明をするのでさえあまり考えていないのに疲れた。この程度でここまで疲れてしまうのなら、対策が必要だ。

 

ただなんとなく感じることは、絶望とは何かを受け入れることか、それに似たことであるようだということだ。
「どうでもいい」のだから、どうであってもいいのだ。死んでもいいのだが、生きていても構わない。何か期待するのはただの妄想みたいなもので、叶わなかった時にろくなことにならない。今は何か希望もない(当然だが)。ただただ疲れたので休みたいが、これまでの3週間ほとんど眠れてこなかったようにまた眠れないとしても、それで何か考え込んでもっと疲れるなんて意味がない。

 

当然何も楽しくないが、無理に楽しもうとして楽しくなるわけでもない。

 

おやすみ。