NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

Compassion (コンパッション)

あまりに余計なことを考えていたので、少し流すように書こうかと思う。

勇気がいるものだが、それが正常な神経だろう。

今、ほとんど息ができない状態だ。
誰がどう言っても、私は自分にまるで自信などないし、そういうことは公開される場で言うものではないと思って来た。言うとしたらだいぶん装飾した文章でということになる。

率直な話、私は見捨てられること、愛想を尽かされることが怖くてたまらない。それだけのつまらない人間なのだ。

私が私と思われている普段は、武装しているだけである。もうやめなければと思いつつ、未だに人のお節介を焼くことがあるが、自分が無価値な存在だとは思いたくないからだ。役立たずでは簡単に捨てられる。エリート意識でも何でもない。私レベルの知能で良いなら、別に差し上げても構わない。ただし私の過去と現在の状況等とあなたのそれらを引き換えにすることが条件だ。

誰かをうらやむ気持ちなどなくなって久しく思っていたが、そうではない、ただ我慢していたらしい。

自分を道具扱いしない、大事にしてくれる親が欲しかった。意味のわからない理由をがなり立てて棄てたりしないまともな人が親であって欲しかった。脅して言うことを聞かせることが愛情だと勘違いして、具合いが悪くなったことを責めたり、自分の都合で好きにして良いのが子どもであり人権などないと平気で言い放ったり、セクハラをしても自覚さえなかったり、何十年もお前には金がかかったと愚痴るためにいきなり明け方に独居のうちに来て寝たきりの私を起こし、あら捜しをして叱り付ける、そういう親など持ちたくなかった。

また別の時に他の人間から拉致監禁脅迫を3日間受けたり強姦されそうになった時があったが、親はもちろん、福祉課や保健センターなど支援機関が私を取り巻いていたのに、誰かが警察に届けようとか言うこともない。怒られただけだ。自力でからくも逃げたり撃退したが、しなければ良かったのか。その直後からの機関の担当者を忘れることもできない。暴力団員みたいだった。あとから、警察に行けば評判の良い女性心理士の治療を無料で受けられたと知ったが、その頃には身体を起こすこともできなくなっていた。

それからの6年のうちだけでも4回自殺をはかって失敗している。相談したりした人たちは私が正気を保てる状態ではないことは理解できないのかどうでもいいことだったのか、死んでいれば良かったと思うようなやり取りの末に決裂した。

親友が自殺したのは監禁直後だが、今はひどくあとを追いたい。

既に書いたことがだいぶ重複しているが、苦しくてたまらなくなったので書いた。私は自活ができるとはとても思えないし主治医も断言している。6年前のことがある前から、私は自分の生活のことがどうやってもできるようにならず、疲れ切って海に飛び込みかけたりした。

誰もいない。そう言うと誰かが気を悪くしたりがっかりするかも知れないし、別の行動を取るかも知れないし、さっきも話を中断されてしまったが、それこそ象徴的だ。私に止める力もないし、権利もない。そう思って独りで自立しようと頑張ろうとしたが、そもそも、やっぱりどこを探しても生きている意味や理由が見当たらない。

「そう。」とか言って皆去るだけだ。わかる人ならわかるだろうが、他人(親は立派な他人である)などに皆そんなに注意も払うものではないし、他人の苦痛が想像できるものでもない。

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コンパッション、という言葉が出てくる。
辞書では同情とか憐れみとあるが、"compassion" と書く。comは「共に」passionは「苦しみ」。

一緒になって泣いたり悩んだりするということで、上からかわいそうに、と遠くで見下したりする同情ではない。

これを途中までどうにか読んで、思い切り意識が遠のきそうになった。まだ呼吸困難だし意識も時々混濁して来ている。私が欲しかったのはコンパッションだ、ピティ(pity)ではないのだ。シンパシー(sympathy 共感)は、持たれているのかわからないが、私では使いものにならないだろう。

私にできるのはこんな駄文を書くくらいだ。絵も少し描く、裁縫やらも少しはする。人に知識を渡すこともある。だから何だというのだ。何か実を結んだことはない。

そうやってまた捨てられる。また生き残ってしまう。

何の価値があるというのだ。この私に。

 

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