NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

「生存確率」問題

久しぶりのひどい抵抗感。
眠りにつくことに対してである。

 

昔から強烈に不眠だし眠ることに対する抵抗は強かったのだが、今眠らない理由があるとしたらなんだ、一体。

 

 

思い当たることといえば心理学的な知識になるのだが。
PTSDがあると常時緊張度が高くて、それは緊急事態の場面では役立つ。


が、今のように中途半端な状態に置かれるとーーというよりは「割合安心していい」状況下に置かれると、「困る」のだと思う。

 

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先日クリニックを受診したのだが、主治医が私の様子を見て私とは会話にならない、客観的な状況を聞きたい、ということだろうが、とにかく私の話は遮りまくって、付き添いに来てくれた人とばかり話をしていた。

 

付き添い人のおかげで事情はきちんと伝わり、主治医のほうから今一番の問題になっている支援機関に連絡してくれることになったのである。付き添い人はしっかりしている人だから、その人が「先生のあの話で理解できなければ(私の担当は)失格だ」と言っていた。意味がわからず聞くと、「あの人は以前高齢者介護施設で働いていたから」という。

 

主治医はもう何回も私には言っているが(そして記事のどこかに書いたかも知れないがちょっと今見つからない)、私の障害と病気と状況の掛け合わせで「認知症の寝たきり高齢者に相当する状態であり、そのケアが最適で必要だ」といった説明をしたのだ。だから「その例えで貴女の状態が理解できないというんじゃ失格だ」というのである。

 

主治医は私には入院できないか病院にかけあってみてくれると言い、「この1年頑張って心理的な内容で考え過ぎている。1日の時間をなるべく『what to be』ではなく『what to do』になるべく切り替えてくれるといい。遊んで下さい」と言った。つまり心の有りようのほうはなるべく意識する時間を減らし、とりあえず動いてくれということだ。その際、真面目くさらず、楽しく過ごしなさいよアナタ、ということ。

 

さらに、私は数人に相談しており、別の方面からも連絡待ちの状態だ。私の住む自治体の行政は全くふざけた状態であることがわかり、介入してもらうには民間を頼るしか策がないので、まず1人から連絡を待っている。それ以上相談したり何かすることはわたしにはもうできない。

 

こうして文章が書けるので読んでいる人はいぶかしんでいるかも知れないなとは思うのだが、重度の障害者でつきっきりの介護が要る人でも、パソコンを駆使して年だかどれくらいだか知らないが数億から稼いで家族(親兄弟と親類らしい)を経済的には養っている、という人もいる(インターネット界では有名過ぎて名前書けないけど)。そういう人だっていることを思えば、私のような発達がメチャクチャにでこぼこしていて、ひたすら文章だけは書ける人間、というのがいたところで、べつに変でも不思議でもないのだが。

 

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報告できる状態でもなかったので今した訳だが、そこで初めに戻るのだ。私の持つPTSDはあまり芳しい状態でもないし、複数あること、一筋縄ではいかない重さであることなどはこれまでの記事でも書いている。

 

私にとって眠って意識が途絶えることはかなりの危険な状態だという意識が働いてしまうのだ。
これまで、一番短く数えて一年間程度は、ずっと緊張状態にあった。無理することが当たり前だし気を抜ける感覚になどなれなかった。トラウマの症状も出たし、ひたすら悩んでいた。かなりのんびりしている病棟での入院時も、全然、悩んでいる状態から抜けられなかった。

 

6年前に事件にあってからは体力が落ちながら無理矢理に理解しようとしない行政と独りで闘って来ていて疲弊しきって寝たきりなのだが、今年初頭、自分の行動が異常になったので人に相談をし始めた。

 

まだどう異常だったか書く気になれないような内容なのだが、途中から友人にバトンタッチして、私はやっと変わりだすことができた。

 

 

変わったというのは行動を起こす気になったとかいうことであって、何か、「病気が治った」とか言うよりは、「何かを改善する準備ができあがった」という、いわば心の土台ができたということだ。

だからPTSDや他の病はひとつも「治って」いない。何か問題が解決したわけでもない。その解決やらの基礎力を引き出してもらったというか、修正をかけてもらったところまでなのであって、それ以上は私が動かないといけない。

 

PTSD心的外傷後ストレス障害というものは日本では禁句だったりするし、自分から言えばなおさらのことだし、まあ、私自身精神的な症状に軽々に病名などつけるのには賛成しない立場である。が、実際に症状はあるのだ。体力もないし、身体的な症状もメチャクチャに出ている。これは今年無茶したことに重なって、支援があまりにあまりだということの心労があるのだが、元々「PTSD」がなかったらこれくらいで参らなかっただろう。

 

当然そんなことは詮無い話で、要は今、良くも悪くも脱力してしまっているということ。

昔から生涯をかけた訴訟を闘ったりなどして、事が終わったらすぐに逝去してしまった、などという例は多い。
私は今のところ死ぬ気はないのだが、期待も安心も心配も、何もしないようにはしている。

 

ただ、平常というものを知らないので、今のような状況にいる時どうしていいかわからず、「いつ何が起きても即応できるように」という緊張状態になってしまっているのだ。それしかこれまで経験していないから。だからこそ「遊んで下さい」と皆が皆言うのだしやってみるのだが、気が済んで寝ようとか明日に備えて寝るとかいうのは、どうも感覚がないのである。

 

 

命に関わるような強度の危険を感じる体験をした後で起きる問題だ。
私は心理学の勉強を途中で投げ出したのでこういう用語だか説明があるのだか知らないが、とにかく「世界中が危険な体験をするような場面」である以上、逃げるか闘うかしなければならない。それが「生存確率を高める」ための反応であるが、このせいでずっと交感神経優位のままだから眠れないし眠る気になれない、などという説明もできることは以前書いた気がする。

 

ここで気張るべきでもないのだろうと思うのだが、こればかりはまだわからない。今気を抜いたら死ぬような気がしているのかも知れない。心に致命的な傷を負わされるというのは、そういうものである。気楽とか適当とか、やってみたくてもわからない。

 

ともかく、今じたばたしようはないのだけれど。