NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

それでも今は 2017/01/10 3:58-7:02

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性被害を受けた話 2017/01/09 19:36-21:08 - NIKITAのリハビリ的日記

では書かなかった今の心境などを書いておこうかと思う。

 

記事でやたら疲れていると書いた。ぼんやりしていたとも。言っておくと私がぼんやりするというのは相当の事態である。いつも緊張度が高い。

 

わざわざ書くのも妙な気もするが、私は今、幸福なのだ。だから、大丈夫なのだ。

 

疲れ切っていたのは昼間泣き過ぎたからだ。1人、チャットで毎日ただ話しかけ続けてくれている人がいる。話と言っても会話が成立しているのかこれ、という感じだ。逆から言えば、なんの緊張感も気遣いもいらないのだ。かみ合ってもいるのかいないのか。ほとんど話題も記憶にない。たまにしか話題のある話もしていない。話題のない話って何だという感じだが、いや、だって会話が成立しているのかも怪しいのだから、話題もへったくれもない。

 

何か条件を満たす必要を全く感じない。そもそも、相手から毎日ただ何となく意味もなく話しかけてくるのだから。

 

条件を満たす必要もなく、私が何かするでもなく、ただ毎日連絡をくれる人、ってこれまでいただろうか。ちなみに大人の女性だが。

 

確かに先に声をかけたのは私だ。雑な言い方だが、この人は何だかすごく1人なのではないだろうか、と何か孤独感が見えて、私が主催するコミュニティが使えるかわからないが試しに参加してみませんかただし英語ですが、という話を持ちかけた。今私がそれどころではないのでコミュニティはとまった状態だが、そんなことと関係なく、毎日チャットが来るようになった。

 

理由がわからなかった。私は何も差し出していない。元気に振る舞うこともしていないし、こちらから話しかけたのは本当に最初のうちだけだし、私が何かしたのでもなく、相談事をしたのでもなく、もう正直に言って私のボキャブラリーでは何が起きているのか説明できないのだ。なんで何も引き換えに差し出していないのに、一切の気も遣っていないのに、頼んだのでもないのに、ただ話しかけ続けてくれるのか理解できなかった。

 

昨日、ちょっと愚痴っていいかと言って話をした。そういうことをしたことがないから、かなり神経を使ったが、相手からは「友達じゃないの」と不思議そうに言われた。

 

以前と違って、私は今なら騙す気があるような人がわかる。何かあれば対処もできる。それは前に書いた友達の来未炳吾のおかげなのだけど。

 

説教もされない、話が耐えられないからやめろとも言われない、何か明確な理由も見当たらない、何か私が努力する必要もない、それでいてお願いしてもないのにただ毎日メッセージをくれる人、なんて、そんな虫の良い人はいなかった。それは、私にもうまくコミュニケーションができないからとか事情をくめないとかいう責任もあるのだけど、今話している人とはメチャクチャにコミュ障の状態でなんとなく言葉をかわしているだけだ。それはさすがに本当にいなかった。どんなに気を遣ってくれる人であっても、私が気を抜いて大丈夫な上にあちらから毎日毎日メッセージをくれる人など、地球上にいるとは思ったこともない。暇な人でもないようだ。

 

あの、あなた地球上にいるんですか私信。

 

私にとって、人間とはこういう生き物ではなかった。他の人達にとってはこうなんだろうか。こんな都合の良い話があるのかと思うくらいだ。あるの?わからないんですけど。これ現実なの?

 

ここに書いたような話も正直にした。同情して欲しかったのでもないし、失礼だけど危険かも知れないと思わなくもなかった。ただ意味がわからなかった。私は何も提供していないのに。気も遣っていないのに。

 

話していて、ずっと涙が止まらなくて困った。ここへ来て、私は自分の境遇を本当に理解した。私は本当に独りだった。そうでなければならなかった。誰かが一緒に居てくれていることを実感したことは全くなかった。それが欲しければ、絶対に何か対価が必要だった。相手がそのつもりでなくても、私にはないものを普通に要求されていた。

支払うのに酷く骨が折れる代物だ――普通のフリ、元気なフリ、話を合わせること(皆の話は私にとってヴァーチャルなものでしかなかったし、私がわかる話は「重い」「ウザい」と嫌がられることしかないからだ)、自立しているフリ、相談に乗ること(これはちょっとしたことがある。大抵の人が悩んでいることは、私が10年は前に通過していたことが多かった。今もそうなのだが、現実に合わせて調整をかける必要がある)、機嫌を損ねないよう細心の注意を払うこと、通常の話題は理解しようがないから雑学的に知識をプレゼンすること、もうキリがない。ひと言で言えば嫌われやすいのでかなり無理しなければいけなかったのだが、そんな風にまとめられるものではない。私は私であってはならなかった。時には人間であってはならなかったのだけど、本当にキリがないからこの辺にしておく。あとは外語を使うこと。これは不快なわけではないが、語学が得意ではないから大変だ。

 

チャット中にこんな具体例は挙げなかったけど。実家のことも何も話してはいない。それどころではなかったのだ。

 

自分の感情を感じることに慣れていないので、1時間くらいだろうか、洪水とか土砂災害で押し流されているような感覚で、良い感情なのに強すぎて苦しいくらいで、何という感情なのかわからなかった。皆はこんな強烈なものに慣れているのかと信じがたい。赤ちゃんがよく大声で泣くわけだ。

 

「あ!これ、もしかして幸せなのかな!?」

ずっこけたスタンプが送られて来たが私は真剣であった。知らないものは知らないのだ。

 

私は間違いなく、酷い災害に見舞われたのだと自覚せざるを得ない。あんまりの落差だ。頑張れるに決まっている。私は大丈夫だ。

 

これでは、と思った。これでは、私達のような境遇でない人には全然わからないだろう。依存とか期待し過ぎとか甘えとか言われても、それはまともな環境で育った人の基準であって、「被災者」である私達に押しつけられても困る。ヘルパーと話して、一体依存なんてばかげた概念はいつどうして誕生したんだろうね、となった。モノなどへの依存症ではなく、親なりコミュニティなりに、大昔から人は当然依存して生きているじゃないか、それを奪われた人が人生のどこかで一度はビッタリ依存経験をせずに健やかに生きられるようになるわけないじゃないの、と。その機会もないのに生きる力なんかつくものか。常人には無理だ。そういう人が何かに依存症を引き起こすのを弱さだ甘えだというのは簡単だ、必要ない人なら。

 

実際、私はこんなに力づけられることを体験していなかった。すさまじい力だ。こんなものを普通に与えられている人から説教されても全然説得力がない。これではどうやってもこちらのことは理解できないだろうから、感覚がわからないのはしょうがないのかも知れない。だが、こうやって言葉にしているのだ、これを遮断してそちらの都合だけ押しつけるのは道理が通っているとはいえないのではないかと思う。

 

こんなに幸福なのだ。そしてこの感覚感情に耐えられないということもない。やって行けるし、やる。