自分の言葉を持っていない私。
ある小規模なSNSにはほとんど毎日更新している。
私の問題のおおもとはだいたい会話力がないからだ、とわかったのが9月のこと。それまでもコミュニケーション力はないと自覚があったし、そのために困ることが多かった。
だが、私は「言語性に偏ったアスペルガー」だ。
私の場合、とりあえず言葉の意味をすぐに類推してさっさと会話を運べるが、それでは表面的な会話、決まりきった会話、すでに知っていることを話す、そういうことしかできない。つまり、実は会話の内容をあまり理解していないのだ。当然覚えることもできないし、会話が深くなったらもうついていけない。
そういうことを信じてもらえないできたし、自分のその酷さにも気づけなかった。
9月にその会話力のなさがよくわかり、しばらくかなり苦しい思いをした。その時は入院していたのだが、その間中、ずっと悩んでいて、まだ悩んでいる。
ひたすら愚痴だろうがなんだろうがSNSに書き込んでいた。それでトラブルになったりは滅多にしない所なので。それどころか「いいね」に当たる反応は増えていった。
遠慮なくやっていたら、だんだん愚痴や吐き出しは減っていった。
そこではTwitterなどと違い、発達障害だろうが精神科の病だろうが本当に何をどうしたらいいか情報交換もできず、取り残された人々がいた。
SNSではどこでもやっていたのだが、私は困っている人などを見るとすぐに「助けに行く」のがやめられなかった。
大抵、見て少し考えれば何を言えばいいかわかったからなのだが、今ではそれは理由とは言えないとわかっている。
自分の存在価値の確認のためだ。
もちろん、本当に心配してはいるのだが、それが第一の理由といえるかどうか。
その証拠に、相手のことには勝手に口出しするくせに、自分が誰にも相談に乗ってもらえないと言うことが不満でつらかった。
不公平だというわけだ。自分でやっているのに。
それは母がいつもしていたことだ。
それに気づいて、そんなものは自傷行為と変わらないと言われた意味がわかった。
そんな条件を満たさないと、私は自尊感情を持ってはいけないのか。
最近、方針を変えた。簡単に言うと、優しい言葉で気遣うのをやめた。疲れるから、不満が残るから。
会話は最小限にとどめ、私が取り組んでどうにか実際にものにしてきたことや役立ちそうなことを、記事として、一方的に発信することにした。
見ている人は見ているようになったので、例えば当事者の親御さんには、何故お子さんがこういうふるまいをするのか理解できてだいぶ楽になった、一番苦しいのは本人なんですねと言われた。
私はそのまま立場をひっくり返して考えた。なんと言ったか覚えていないが、私には理解できない定型の子を育てることは到底できるとは思えなかったので、そういうことを言った。
借り物の知識ではない自分の言葉で話をしていく。当面、それができたと思った日は「よし」とおもえるようになった。
色々やらない。一番の問題をじょじょに変えていければ、眠れるようにもなるだろう。