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NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

足りないもの 2017/01/27 20:08-22:47

「どうしてそんなに動じないようになったのか」と聞いたのは11月だった。答えてはもらったが、別段方法とかを教わったのではない。

 

正直に言えば不満ではあった。単に貴方の場合はどうだったのか、を参考に聞きたかったのにと。

莫迦だなあと思う。それを聞いてもしょうがないことに、半分程度しか気づけなかった。

 

そんなことよりも大事なことを言われたのは何となく理解していた。私が迷ったり困ったりして来たのは、その時にもらった回答を理解しきれずにいたからだ。

言葉でだけなら「識っている」ことだった。でも、わかっていなかった。

 

今もわかってない。少しだけわかったけど。

 

引用も説明もしないのでは何のこっちゃかだが、私がわかったのは「自分が全然わかってないということ」だ。わかってない話を説明するのはあんまり意味を感じない。説明して私がわかるんだったらいいけれど。

 

前の記事で書いたことってのは、要は私には「身体で体験する」(トートロジーっぽいけど)ことが凄まじく欠けているということだった。

 

その前の記事だってそういうことなのだ。具合が悪くても焦る必要ない、ということにたどり着く体験が足りなかった。というかほとんどなかった。

 

例えば今、私はすごく空腹だし、ブログなんか書いてないで先にすることがある。それができるのが生活なんだろうし、もうこうやって気づいてる。

ここでじゃあやれと言うのはすっごく簡単。

やったとしましょうか。私はおかしくなるだろう。そもそも、そんな風に無理矢理一時的にやったことなんか身につきゃしない。

 

――っていう反論を続けると、私は相手を論破してしまうんだよね。これを「頭が良い」なんて言う。

 

知能はそりゃ高く出るでしょうよ。それが何なの。自分で生きにくくするためにその知能使ってどうするんだ。

 

と、糾弾するのも非常に簡単。何か役に立つかって言えば、自己嫌悪とかそういうのに一役買うのじゃないかな。自己否定を強くするとかまあ何でもいいけれど。

 

「大した問題じゃない」と言われた。

何に焦点を当てるべきなのか、だ。

こうやってグダグダどうでもいいこと考えてどうするかって、私の習性を理解して整理したいのだ。

直ってないからね。「気づいてるのに」。ずっと前から気づくのは気づいてたけど直し方がわからなかった。

それだけのことだから「大した問題じゃない」のだ。

 

わからなかったと言ったけど、そんなの「やめれば良い」。「やめたいって思って別の考え方を選ぶだけ」。なんでそれができないか?

 

「やるべきだと思うことをやっていない、本当はできることもわかっている、それに気づいているのにやらない」から、だと言われた。

 

これじゃ読んでる人にはわからないはずだ。

 

私には「自分の意思」が足りなかったのだ。何故か?

体験が足りないからだ。

楽しい感じも知らないし、生活している感覚も積み上げていない。もし体験することが当たり前であれば、自分にとって良いと感じる物事は欲しくなるし、嫌なことはどうしたら処理して良い気分になれるか必死に「考える」し「やる」だろう。

 

それだけ。

 

私は渇望する対象が明確じゃなかったのかな、と思う。

「別に」生きてなくていい。

「別に」死んでもいい。

「別に」幸せになりたいと思わない。

「別に」苦しいままでもしょうがない。

「別に」助けてくれとは思ってない。

「別に」理解されるとは思ってない。

「別に」復讐したいとは思わない……

 

そんなわけが、あるか。

 

今時間がないとわかってるのにこれを書くことを選んだのは何のためだ?

いきなり大声で歌った、その行動を選んだのは何故だ?

去年1年あれだけの無茶を選んだのは私だ、それはもう苦しいのが嫌でたまらなかったからで、自分がそこから抜け出すことを結局は選んだからだ、そうじゃなければやらなかったし続けなかったんじゃないのか?

このところ泣いてしょうがないのは?その理由はともかく、そういうのハンドルしたいんだろうが。

もう人を疑ってばかりいるのも嫌だ。

 

私は幸福とか楽しさとか歓びとか満足感とかを渇望しているんじゃないのか?

もう、そういうふうに自分に本当に正直になっても殺されたり痛めつけられたりする心配はないと確信したいんだろう?

 

やればいいんだ。

 

もうそっちを選んでるんじゃないのか。

今の滅茶苦茶な状態をどうにかするのにいきなり1回でも外国に行きたいとか言い出したのだって何か誰かの真似して思いついたんじゃない。それが結果的には結構一般的な方法だったりしても、思いついてどうしてもやりたくなってるのは私のオリジナルの直感からで、きっかけになった香港の友人だって全然こんな話なんかしてない。

 

キリがないからこのくらいにするけど、昨日の記事を流したら、私の歌をそのうち披露する話になった。断らなかったのは記事を書く前からそうする気があったから。

 

でも、今もそうだけど、私は試しに録音してみることさえできない。それが「本当に自分がやりたいことだから」じゃないかとしか思えない。

 

そういう、私が楽しく生きようとする意思は、やはり奪われたのだ。悟った顔して許すとか平気なフリなんか今の私はできないしする気もない。

終わらせる努力なら惜しむいわれはない。できるだけ早くはしたいもんだけど、まあ、生きてる以上全部同時進行になるんだろうな。

怒りはそりゃあって当たり前だけど、他の感情体験も同時に積み上げなければ向かう先がまたわかんなくなるから。

 

ああ、疲れた。