「泣きながら」2017/01/26 16:34-17:59
最近更新できないでいる。珍しく、勢いで書き下ろす。
言うことがないというのとは違う。
表現できない。
書いても書いても言いたいことじゃない。
SNSも控えめだ。
現実が忙しいことに気づいたのはひとつ、理由になるだろう。
これまで一体どうやって生活して来たのだろう。
意識して何か変えたのではない。が、なんだこの忙しさは。
今も、何も解決や改善ができたわけではない。
生活と書いたが、私のこれは生活という言葉に相応するのだろうか。
広辞苑など見ても参考にならない。感覚的に言えばこれは生活している感じではないと思う。
私はただ生存しては来たけれど、死ななかっただけ、という感じだ。何も為してない。このまま死ぬとしたら生まれた意味なんかない。
ないのだ。そう感じるんだからそうなのだ。
死にたくないかどうか、じゃない。今の状態で死にたくないのだ。
暮れに心身に病気かと思うような無茶苦茶な現象が起きるようになったことは書いた。それは恐らく、感覚が現実に沿ったものに調整されたから、脳のこれまで使って来なかった部分が使われだしたためだろうという推測をもらった。
暮れのような激しさは減ったが、その現象は続いている。相変わらず小さな刺激にも鋭敏で、その反応に振り回されている。
減った、と言うのは、慣れただけだ。「これ」つまり「具合の悪さ」に慣れてどうするんだ。それじゃ以前と何か変わった、変えられたとはいえないだろう。
示唆は貰っているが、正直に言って何をどうしたらいいのかはイメージもできない。
いや、直後には直感的に「ここにいちゃいけない」と感じたのだ。
あまりこれといった理由はないが、香港の友人が見せてくれたCNNのトラベルサイトを見て、1回は香港に行きたい、と思った。知らない所だからだ。日本の外を経験してみたい。
現実にはすぐには行けるわけではない。私はまずアパートから出て無事戻って来ることができるようにくらい、なる必要があろう。電車もバスも何年も使っていない。出かけるのにどういう準備が要るとか、忘れてしまった。
都内に友人ができたのでその人の家に行ってみようと思ったことも書いたっけ。
今は悲壮感が強くて楽しみという感じにはならない。来週末に行く予定だが、私がどれだけヘロヘロかはきっと想像つかないだろう。が、悲壮感の理由はそこではない。
私は、崖っぷちに立っている気分なのだ。
―――――
今朝、早朝、私はかなり久しぶりに歌を歌った。
ボロアパートだが何故か音だけは相当伝わりにくい。
私が歌ったのはB'zの曲で、大昔からファンであり、私自身がヴォーカリストをやろうと思ったこともあった。20年くらい、邦楽ならほぼB'zしか歌ったことがない。それも「耳コピ」にあたるのかも知れないが、とにかく同じことをなるべくできるようになってやろうとした。声量、声域、独特の歌唱法、安定した音程など。だから私が本気で歌えればかなりの大声だし、肺活量もたぶん結構あっただろうし、技術的にもそこらのカラオケの集団飲み会なら、私が歌い出したら皆がビックリして思わず最後まで聴いてしまうくらいの力はあった。
大したレベルではない。が、その程度くらいまではできるはずだ。
身体感覚でいっぱいの状態は気分が良かった。考えず、分析せずとも、自分の身体に何がどれだけ不足しているかわかる。何ができるかもだ。腹筋を中心に全身に筋力が足りないから声を支えられない。練習不足からブレスの仕方がなってないので(肺活量もたぶん足りない)次のブレスまでもたない。声量と音程がコントロールできない。――が、それを感じ取ることは即座にできた。大胸筋がしばらく痛かった。知識ははっきり言ってまるでないのだが、歌いこんでいたから感触はわかる。歌詞は英語版を選んだが、それは練習した当時英語に悩んでいたから英語曲ばかり歌っていたせいで、日本語版と英語版がある初期の曲ならほぼ英語版ばかりに没頭していたので、馴染んでいるし覚えていたからだ。
20年近く経っても覚えていた。歌詞も、色んな感覚も。身体の使い方も。ついでに色々な記憶も。
もちろんだいぶサビついているに決まっている。もう一度身につけ直したら楽しいだろうか。
頼む。そうであってくれ。
こんなに心細いのをはっきり感じるのは、きっと初めてだ。だってこんなもの、誰かに頼れるわけじゃない。