NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

人間と関わって来た雑感 2017/01/14 3:00-4:11

つくづく、人の関わりは誤解がほとんどで成り立っていることを感じる。今ほどはっきりわかったのはやはり初めてだ。

人間のやり取りのほとんどは言語を介しているのだから、そこから感情を基準にした抽出の仕方をしたらそれはかなり恣意が働くし、言葉そのものを基準にしてみないと理解は遠のきそうだな。別の脳みそ持った同士がそれぞれの世界観や考え方で会話や何らかの合図でやり取りするのだから間違えるに決まっているのに。

要するに人間って思い込みしやすくできているし、思い込みのもたらす影響がとても大きいのだ。

私はまだ人間が好きとまでは言い切れないが、人間に生まれた上に、ここまで良し悪しはともかく、まあ小さいとは言いがたい経験を積んで来て、蓄積して来た物事が山ほどあるはずだ。それを活かすも殺すも私次第なのだが、そういうことをできそうなのは今のところ人間しか知らない。それを私に伝えてくれたのも人間だ。

昔から私は人間以外の生き物でありたかったりしたけれど、彼ら(犬くらいしかよく知らないが)は「友達」にはなれるだろうけど、支えにも師にもなるけれど、やっぱり人間が勝手に思い描く世界には生きていないんだよね。

人間に生まれたからには「人間で良かったなあ、人間で楽しかったわ」と思って死にたいわな。一生愚痴言い続けて誰かが助けてくれるの待って誰か恨んで仲間うちで慰めあってるだけでは、そんな終焉はなさそうだな。

昔ネット上のコミュニティで親友と思っていた人とは「死にたい思い」などを否定することなく、「当事者で作った当事者が運営する共同体を作れないか」と考えていた。私が簡単な発想をして、友人が具体的にはどうやれば実現するか調べたり考えたりして、私が現実的かどうかはともかく色々発案やら当事者が固有に持つ問題を挙げていき、友人がそれをまた現実に引き寄せるということをしていた。NPOまで考えにあったし、彼女は実際にどうすればそういう団体などが作れて運営できるかなど調べたりしていた。

上記のような人ではなかったのだ。それが私とどう影響し合ったか、今では知る由もない。

彼女は唐突に世を去った。現実的でない部分を自由に担当していた私が事件被害にあった直後に。身近な人が亡くなって苦しんだのはそれが本当には初めてだった。

私はいっぺんにいくつも、色んな種類の、すべて大きなものを奪われた。そこから恢復する方法どころか、今にするとそこから6年その記憶を引きずったままどうやって生きて来たのかわからない。

私はそれまでの長い人生でも、そこから昨年までも自立できる気がしたことがなかったが、完全な人間不信にもなれなかった。

そして、やはりずっと怒りを抱えて来たのだと思う。自分であまり感じないように安全弁として抑え込んで来たのだろう。それが病むってことじゃないのか。今も健康ではないけれど(ずっと眠れずもう早朝だ)、見ないで来た現実、感じないで来た感覚の世界にやって来れた。あまり失いたくはない。もう、「自分が自力で生きて行けるかも知れない」と思っていたらサラッと破壊される経験はごめんだが、少なくとも、自力で、という部分は昔のような根拠の乏しいものではないから、今は何とかできると思う。

人間が素晴らしいとか何とかいう感覚は今のところ、私には理解できない。ただ、私が今こうしていられるようになったのは、やはり人間の力を借りているからだ。

誤解だらけでも、そんな未知の世界に生きてみようと思う。