NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

孤独1

孤独とか孤立とかいうものの定義というのは難しいものだ。
 
 
辞書を引いたりすると孤独は感情で孤立は状態を表すようだが、私は英語を使うことが多いので、こういった「ニュアンス」に依存する表現をしたい時かなり困るし、よく間違える。
 
 
勉強不足なのはもちろんだが、私が決して言い訳にしない方針で来たことがやはり邪魔している。
 
 
発達障害である。
 
 
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今回はかなりシビアな話をするつもりである。心情やエピソードよりも、メカニズム的な話をするので、論文とか解説文のようになるから、難しく感じるかも知れない。
 
また、論文について知らない人が多いので一応断っておくが、一つの文章で扱えるのは一つのテーマにすぎないし、多方面からの見解ではなく、「このテーマについてはこの立場からこの切り口で話を展開し、結論はこうであると断言する」という決まりがあり、それに沿わないと話が滅茶苦茶になってしまう。だからここで扱っていない話を持ち出して反論や持論を持ち出したくなる人もいることは承知だが、それはお門違いである。さらに感情論である場合が多いこともわかっているが、当然それは受け付けるものではない。まとめると「関係ない話を感情で言われたところで応じようがない」ということである。
 
 
表題が「孤独」であるように、感情についても扱う。だが、あくまで仕組みを説明するという観点である。
そして私の立場は「発達障害者である子」である。それ以外の立場には立たないよう気をつけるが、現実にあった未整理の記憶を持つ以上、当事者としてしか書けない。これは私の限界でもあり、人間の限界でもあるが、それを超えるために書くものでもある。
 
 
そのため感情はできる限界まで排除して書く。いったん、整理しておきたいのである。
 
 
初めからきっぱり論文調では読みづらいので、少し私の事情を書き、徐々に論説に入る。
はじめは孤独についての考察を始めるにあたっての序のようなものである。
 
 
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アスペルガー、今の名称は自閉症スペクトラムだが、それを先天的に持って生まれた私は、さらに家庭環境に恵まれなかった。
 
 
私の場合は父もその母親も自閉症スペクトラムと断定して良さそうな特徴が、今にすればかなり明らかである。
加えて母はそういったものがあるかはともかく、異常性格というしかない。
 
 
そこから孤独、孤立ということを思い、考えや知識をまとめておきたくなった。
 
 
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まず、私や私達の障害や疾病について、誤解している人も多いので、説明しておく。
 
 
心理学の用語に「輻輳(ふくそう)」という難しい言葉があるが、色々な要素が一箇所にこんがらかった状態のことを指す。通常、精神疾患などというのはこの言葉を用い、遺伝的要素と生後の環境要因が合わさって生じると言われている、と20年ほど前に大学の講義で言われた。「輻輳説」という。
 
 
当たり前のことである。精神の病だろうが障害だろうが、身体だろうがなんだろうが、遺伝がゼロか百、環境がゼロか百、などと言える訳がない。
 
 
自閉症の世界では環境要因は永くタブー視されてきた。これは行き過ぎた母親バッシングの反省から来るものだが、では全く関係ないかというのは愚問であって、私が在学していた頃でさえ、
 
「養育者にとって、子の反応が通常予想されるようなものでなかったり、いくらあやしても反応しなかったり、笑うということがなかったりすれば、育てがいを見失う。しても無駄だとわかっていることをなんなくできる人間はそうはいないので、子に冷たくなったり、笑いかけ続けることができなくなったり、かわいく思えなくなることは、人として自然なことである。これを『母性本能』という神話に基いて、子育てをすべておしつけているか、通常予想される反応を得られる立場にいる親などの無責任な人間が勝手に騒ぎ立てたというのがいわゆる『冷蔵庫マザー(冷蔵庫のような冷たい母親、という揶揄)』という言葉である」
 
といった説明はかなり古典的なものとして確立していたのである。つまりそんなことは当たり前だということだ。
 
 
さらに現在では、後天的に発達障害様の障害が起きることが研究として認められつつある。
日本語で書かれた本はまだ少ないが、インターネット環境があれば見つけることは簡単であるし、それについて取り扱ったサイトやブログも出てきている。
 
 
つまり発達障害自閉症スペクトラム障害は後天的に引き起こされているものが含まれている可能性が高いというエビデンス(証拠)が蓄積されだしているが、まだ不十分であるので、ここで断言することは避ける。
 
 
しかし、上記の「冷蔵庫マザー」についての説明およびこれから述べる説明はごく常識的なものとなっている。これは正直に言えば今更なものなのだが、私が多少なりとも心理学を修めかけた関係もあるだろうから、なるべくわかりやすい説明を試みる。
 
 
そもそも、人間が一番負担に感じ、疲れて参ってしまうのは、「徒労」、無駄な努力である。それ自体を誰も責めることはできない。何しろ拷問でもポピュラーなのがこの徒労感を覚えさせることであったりする。例えば「穴を掘らせる。それを埋めさせる。また掘らせる。また埋めさせる。用途はなく、ただそれだけが繰り返される」というようなたぐいのものだが、そういうことで人は「発狂」する。意味を見いだせない行為はできないようにできているのだ。日常生活でも精神を病む理由の1つにもなっている。絶望して自殺に至るのは、人生を生き抜く努力に意味を見いだせないからだ。負担のほうが上回ってしまった時、何か生きる理由がなくなったり、初めから見つけられないでいる状態から抜ける手段や助けなどが何も得られなかったりした場合、人は簡単に絶望する。拷問はそれを応用しているし、いわゆる洗脳などもそうだ。少し頭の切れる人間なら、抵抗感さえなければ、いやあっても、そういったことはそう難しくもなく思いつけるし、実行も可能である。通例は社会通念などの「ストッパー」があるので目立たない程度のことしかしないが、程度を度外視すれば日常的に行われていることだ。
 
 
子などを虐げることが意外にたやすく起きるのはこのためでもある。様々な親がいるが、発達障害者の親や家族は負担を強いられるか子に強いるかどちらかに陥りやすい。なぜそうなるのか、まず一般的な親子というものについて説明する。
 
 
自分が思い描いた期待にまるで沿わない、自分がこうすればこうなると思った反応が返ってこない、これ自体をストレスに感じることは、問題ではない。具体的にはいくら言って聞かせても言うことを聞かない子を相手にする、「一般的にはこうなるはず」と思う言動をとらない子をずっと育てるなどだ。これに疲弊を覚えるのは当然である。
 
 
だからといって問題解決と思って間違いをおかさないよう、説明をしていく。
 
 
まず模範解答を言えば、子だろうと誰だろうと、自分以外に自分の意に沿う言動を取るような者はいない。自分のことだってコントロールが難しいのだ。まだ世界や人についてほとんど知識のない幼い子が言うことを全然聞かないなど、当たり前のことであるが、それ自体がまずあまり理解されないことが多いようである。また、ある程度成長している子や他人であれば、ある程度の知識を持ち、世界観が構築されているから、例えそれが「どう考えてもおかしい」ようでも、本人にとってはそれが世界なのだし自分自身なのであり、それ以外の人間と同じようには考えたり行動したりできないのは当然である。
 
 
そこで負担を感じること自体はまず最初の段階としては仕方ないと言った。問題はその後の思考と行動だ。
 
 
何故か自分と子を同一視してしまう親が多い。これは日本社会では人間関係全般に言えるので問題が拡大しているのだが、ひとまずそれは置いておく。まずは親子関係に限定して話したい。
 
 
説明のために言っておくが、私はよく、人について考察する時、「人間は生き物である」という段階から考え始める。動物でもいい。人間は脳の肥大が進んで「知能」「知性」とか言われるものをずいぶん身につけたが、動物の一種だということを現代では否定できるものではない。
 
 
生き物、動物は基本的には自分のためにしか行動できない。人も同じである。他者のための犠牲行動だって、自分が選ぶのだ。よく「自己満足」というものは悪者扱いされるが、自己満足以外に行動を起こさせるものは恐怖や不安くらいだ。大雑把な分類だが、これ以上詳細に分けていっても結局はこの2つの中におさまってしまうのでここではこう言っておく。この2つでさえ「欲求」という1つのことから分けたものである。
 
 
つまり生き物は欲求から動くのだ。欲求を満たすために行動する。それが満足感に直結しているか、不安から行動して不安の理由を回避したり解決して安心して、満足するか。細分化はできるのだが大きくはこの程度から始めたい。
 
 
人は子を産んだり育てたりするが、それは自分のためにしているのだという話をしたいのである。
 
 
これは別段私が考えだしたことでもなんでもないが、ゆっくり丁寧に考えればそれ以外に理由がない。
(ここで暴力的な行為による望まない妊娠などの話題を入れることは避ける。今はごく典型的、定型的な親子や家族について述べているからだ)
 
 
性欲のためだろうが家族が欲しいからだろうが、それは自分や自分達のためであり、自分達の欲求である。
子がかわいいと思うとか育てるという行為をするのは自分がそうしたいからだし、何か他に事情があっても、その理由を子に求めることは筋が違う。子が頼むから生み育ててくれなどと言って来るからではない。もしそうだとしてもそれを聞き入れればそれは自分がそうしようと思ったからだ。
 
 
これが前提であると理解していないから、期待どおりでない子の扱いに問題が起きる。
 
 
「こうであって欲しい」と思うのは普通のことだ。
そしてそうでないことが起きるのも、普通のことである。
その時にストレス、負担、徒労を覚えることも、生き物である以上、基本的には仕方がないことである。
 
 
ここから、「子は自分と同じものではないので期待どおりにはいかないことも多々ある」ことと「まず子を生もう、育てようとしたのは自分や自分達である」ことをわかっているかどうかで子の人生のかなりの部分は変わってしまう。
 
 
意に沿わない子、周囲に恥ずかしいあるいは迷惑をかける子、可愛く思えない子、関心を持つことができない子、という(いささか十把一絡げではあるが)否定的な見方だけをするだろうか。その延長線上であれば、子を苦しめるだけの親になる可能性は高い。それとも、それならどうするべきかを模索するほうへ行くだろうか。その時に必ず上記の二点が念頭になければ、つまづくだろう。逆にそうはっきりとした認識でなくてもどこかでこれらを理解していれば、悲劇的な方向へは行きにくいし、間違えてからの挽回もしやすい。
 
 
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ここまでで一回目を終了する。おおよそ5,000字だが、慣れない話が多く混乱されている方も多いだろうし、ここまでではまだ前提の話をしているだけなので、言いたいことまで話していない。
 
 
これはごく個人的な反省点だが、はじめはこれまでのような一般のブログ的な書き方で書くつもりでいた。
だが、その書き方では私が耐えられない話題につながることと、何故そうなったかを話そうとすると説明を略すわけにいかなくなったため、そして感情を止めるため、途中から論文式になってしまった。
 
 
この前の数記事を読まれた方は私の状態を多少なりとも理解して頂いていると思う。初見の方が多いだろうから本来それに甘えるべきではないと思っているが、自分の精神状態と健康状態のために勝手な書き方をしたままで送り出すことにした。
 
 
この記事も、まずは私が自分のために書いているからである。それでも誰かの役に立つ可能性はあるかも知れない。