読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

生き延びるために

私は生きていたいという感覚がわからない。
いや、正確に言えば、「生きたいと思えない」。

だから何十回か自殺を繰り返したが、こうして生きている。

理由は難しくない。親から支離滅裂な扱いを受けて「お前に人権なんかあるか」と言われたり、自分の優越感を保ちたいがためにけなされ続けたり、プライバシーが全くなかったり(自室ができたのは23歳くらいの頃で、何度ノックして返事してから開けるよう言ってもそれは叶わなかった。それまでは170cmの私と164cmの身長の妹がメチャクチャに物があって寝るには斜めにならなければならない部屋に住んでおり、戸などはなかった)、あらゆることに口出しされたり、勉強どころか宿題するのも「家のことが最優先」と止められたり、どんなに体調が悪くても医者につれていくどころかうめいていればうるさいと言われたりして当然学校を休ませてもくれなかったり、こちらの都合や状況状態に関わらず気まぐれや親の都合で急に呼び出されてどうでもいいものも含めて用事を言いつけられたり(親が寝ている時以外はそれが当然だった)、父からセクハラを受けたり、と、書き出すときりがないのだが、つまりあれは虐待だったのだろう。

私は食事をすることや眠ることに凄まじい抵抗がある。普段は発達障害は食欲と空腹感がつながっていないとか、選択肢なしに食べたいものを聞かれても思いつかないのだとか(そういった特徴が発達障害にあるのは事実であるが)、不眠は不眠であるということで通しているが、そんなごちゃごちゃした話をしなくても簡単なことで、「生きていたいという気がしない」だけだ。

私が何故生きているかは医者も首をかしげるような未遂を繰り返しているので、あまり考えても仕方ない。長く悩んだり考えて仮に結論を出してみたりしたが、時間の無駄だと思うようになった。そんなことはあとでいいのだ。

生活の仕方がわからない。生活する感覚も理解できない。金銭の感覚、というか数が理解できない。睡眠サイクルもできない。食べることや服薬や、なんでも、生きていくのに通常できることがどれだけ努力してもできるようにならない。
主治医の長年の見立てからして、脳に何か器質的で致命的な問題があると考えられる。親からそういうことは何も教わっていないのは事実なので単純に知らないということも間違っていない。発達障害というのは色々な障害を含む概念なので、脳に何か異常があり、学習できない、あるいは困難さが強い、というのはあっても不思議ではない。

ただ、ずっと引っかかっていたのが、「生きていたくない、死にたい」のが当たり前の感覚になっていることだった。
生きる希望とかそういうのがわからない。楽しいとかいう感情、喜びといった知性の働き、幸福に近づくこと、せめて生きやすくなること、そういうものに対してメチャクチャな抵抗がある。

ここまでのことは私に限った話でもなかろう。友人にもそういう人はかなりいたし、今もいる。「いた」というのは、関係を断った人もいるのだが、大抵は自殺している。

何故私が生きているかは置いておくとして、今の私である。私は友人などの助けを得て、かなり精神的なおかしさからは改善できている。精神疾患はまだあるしとても精神障害者でないとは言えないが、以前ほど自暴自棄になったり、依存しすぎたり、感覚のズレが激しかったりということはなくなりつつある。何かに動揺することも、誰かに何か言う時に何をどういっていいかわからないといったことは激減した。なくなってはいないが、それでトラブルにまで発展することは目に見えて減った。

それでも誰しも、どんな人でも生きていて困りごとや問題がないわけがない。私はそういうものに怖気づくことが減ったり、解決に向かうことに意識がいくようになったり、行動することができるようになりつつあるが、ここで邪魔が入る。

私の過去の苦痛は親から受けたものだけではない。2012年2月と2015年1月に他人から故意の犯罪行為を受けた。両方とも、相手の最終目的は達せられていない。私が自分で何とか逃げたり撃退したりした。
それで済むものではない。約6年間、私はほぼ寝たきりになっているし、発作といえるものを起こすこともあるし、思い出して平気なわけでもない。関係するものや人物などで思い切り思い出して大変な苦痛を味わったりもする。

それらの詳細はまたにするが、このおかげで起きている問題がある。精神障害者に対する支援を私は受けているが、こういったことで私のような状態になった人への支援や救済措置はないのだ。当事者が起きて動ける状態ならばまだ何かあったかも知れないが、私は元々滅茶苦茶な育ち方をして既に重症の様々な疾患を持っており、そのために狙われたという面もある(つまり助けもない、後から告訴などもしづらい、だまして犯罪行為に及ぶことが比較的容易だとかいったことである)。

例えばヘルプサービスというものが公的支援制度で存在するが、精神障害者が対象の場合、要は「生活の仕方を教えるために一緒に家事を行う」のが骨子であり、単純に「はい自立して下さい、できないなら克服して下さい」というものだ。通常想像するような介護とか「何か家のことをしてもらう人」「できないことを代わりにしてもらう人」が来るサービスではない。時間だって短いし、そんなに来てくれる回数もない。やることは私達利用者が考える。私に言わせれば無謀もいいところだ。(ただ、地域差はかなり激しいらしい。私の場合は東京都23区のひとつである)

この制度の考え方のおかげで私は苦労を強いられてきた。6年間が闘いだった。他県などの専門家や関わりのある人とつながりがあるが、「こんなひどい対応は聞いたことがない」「制度が受けられると認定されているのに扱いがひどい」「介護区分がどう見ても軽すぎる(私の場合はもっと重症者であるのにかなり軽症の扱いを公式に認められているということ。具体的には区分3だが、2つは重いはずだ、という意見を複数もらった)」など言われている。「支援のせいで重症化してるよね」とも指摘されてきたが、一応、「どうしようもない場合ある程度はヘルパーが家事などを行うことも許されている」ので、これ以外どうしようもなかった。

今、過去のことを恨んでどうこう言いたいのではない。やっとまともな支援体制になりかけているのだが、私が疲れ切ってしまったのだ。連絡をとるということも、ものすごく大変で、なるべく楽な方法をお願いしたり、できるだけ省けるようにしているが、起き上がれない、外出して歩くということもできない、という経験さえない人なら、この疲弊は想像できにくいだろう。それ自体に文句をつけてもどうにもならないから、事情を話して相談している。相談そのものは以前の私では考えられないほどできるようには、なった。

完全理解など不可能だし、はっきり言って心中では私をどう思ってくれていてもいい。やめて欲しいことはそう言うし、お願いはお願いとしてきちんとする。できないなら相談である。

ここまで来るのに、実は「改善に向かう取り組み」を自分から始めて1年たっていないのである。それまではいくら相手もおかしいとはいえ、私もジタバタしてわめいて言うことを聞けというようなことをしていたと思う。つまり「自分はこんなにできないからやってくれ」とだけ説得する人間から「じゃあ解決や改善するにはどうしましょうか、私はこういう状態なのでこういうことを希望するのですが」という人間に変わるのに1年かかっていないのだ。

無理にそういう人間のふりをしているのではない。人の協力や自分でとった行動などで、自分が変化したのだ。

ただ、残った大きな問題が、「生きたいとは思えない」感覚が今もがっちりとあることだ。これは支援を受けようとしたりすれば絶対に言えないし、そもそも人間は生命を扱う、直面することに非常なエネルギーをとられるし、自分ががんばっているのに甘えているなど思ったりするから、私も普段口にすることはない。別に言っても得はしないし、それをわかってもらいたいわけでもない。わかるはずもないのだから言い損だし、あまり慰めあいをしていても気分は良くならない。あまりに参っている時にいたわりあうなどは「あり」だけれど、それだけで留まっていれば一生何もよくならない。それはもう実感している。

だが、口にしないだけで、「生きていたいと思えない」感覚がそれほど変わったわけではない。

生活の仕方や感覚がわからないことをどうするかとか、過去の苦痛を忘れるとか、そういった努力をする気がないのではない。誰かに認められるためにしている面があることは否定しないが、そんなことよりもういい加減に要らないことは手放して生きやすく生きたいし、楽しくなるなら楽しみたい。だからこうして吐き出しているのだ。

勢いなのだ。もっと言えば怒りである。私はまだ生きたいという実感を持ったことがない。私の人生はまだ始まっていない。それなのにこんなことで、こんな時点で、殺されたくない。私の邪魔をするな、ふざけるな。ーーそういうものでしかまだ自分を支えられない。私はろくな人間でもなかったが、すべてを否定することもされることもしたくない。まだ始まっていないのにそんなことは許さない。初めて本当に理解してくれる友人だってできたのに。だから生きているのだ。まだ何も知らないのに、生きていたいという感じも知らないのに、ここで死ぬのは嫌だ。ばかげている。

が、今、私は限界を感じている。怒りなんてものはそんなに持続させられるものではない。非常なエネルギーを食うのだ。6年間、いや、これまでの人生通して私を一番邪魔してきたのはこの怒りかも知れない。そのおかげで生き延びたのも確かだが、もう、そんなもので無理をして生きることはできない。だから、今、再度倒れかけている。慰めてもらってもしょうがない。無理しろと言われても動けない。滅多なことでは言わないのだが「参っている」。助けが欲しい。どうしていいかわからない。休むな食べるな生きるな、これらが頭から離れないのは「ヒマだから」ではない。ずっとそんなことに意識を向けてなどいなかった。考えてなんかいなかった。参り始めてから「気づいた」のだ。もう書けない、もうまともな会話もできない。できないなんて言いたくもないし思いたくもないのに。

先日、無自覚に自殺をはかろうとしていることに気づいて止めた。止められるならまだ大丈夫だと言い聞かせているが、どうしたらいいのか。体力をつけるとか食べるとか休養をとるとか必要な薬を飲むとかができないのは、制止するものが強いからだ。だからどうしたらいいのか考えて、ここまで動いてきた。こういうのは慣れていないから疲れるのもあるかもしれない。なんでもいい。休もうとすれば何らかの自分を傷つける行動を取りだす。他の何もかも、生きるのに当たり前に必要なことすべてだ。体調も先日から滅茶苦茶に崩れたままだ。もう怒りではどうしようもない。自分でできることはもう思いつけない。

こんなことで終わりたくないし、終わらないだろうけれど、これではもたない。だが、どうやって、誰に、何を、言えばいいのだろう。