NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

言葉にじっくりつきあうようになってから

正直に言うと苦悩の日々が続いている。

先に言うと、「自分の言葉がない」とは「自分がない」ということだ。

私は文章力に一定の評価を受けていた。単に文が巧いだけではなく、知識も豊富で、少し勉強すればその力で食べていける、と何人もからはっきり言われていたし、雇いたいと申し出られたこともあった。

ブログを始めた頃そんなことは忘れていた。働くどころかまともに書くことも会話もできない。

その状態の理由はわかっている。
倒れたのは6年近く前で、簡単に言えば事件にあってPTSDになった。その後も何度もトラウマ体験をする羽目になった。

今年相談を持ちかけた人とのやり取りで「そもそも実家で虐待を受けていたことが良くならない原因」という話になった。
これだけ言ったところで何故そうなるかわからないだろうが、私自身が理解していないから説明ができない。

私は自分が理解していないこともわかっていなかった。

ただ巧い文章を書くとか知識がたくさんあるとかそれを面白く読ませるとかいったことは、その程度でもできることなのだ。
文章は型どおりに書けばいい。知識なんてものは修得ができる者にとっては難しいものではないが、それは他人からの借り物であり、そのレベルでも通用してしまうものなのだ。

そこに自分の言葉など不要だし、あっては邪魔でさえある。
自分の言葉というと「個性」とか「その人らしい表現」とかいった感じを受けるだろうが、それで通常は困らない。

私が求めているもの、切実に必要としているのはそういう種類のものではない。はっきり言えばそれは既に身についていて、リアルの知人がこのブログを偶然発見した時「文体ですぐわかった」と言われた。

このブログの目的は「過去の精算」であると一番はじめの記事に書いた。
過去の記憶が私を苦しめているのだから、私がその過去の意味を書き換えてしまえばいい。

それが、想像していたのとはまるで違う意味でメチャクチャに大変なのだ。
苦痛とか恐怖と戦うとかそういう大変さではまったくない。
過去はもう過ぎているので、記憶にしかない。つまり私が脳内再生して何度も同じ体験をし直しているということになるわけだが、そのために過去を思い出して書いているのに、違和感しかなかった。
読んだ人を驚かしたり共感を得たりはしたが、私自身は何かを書いた気がしない。

仕方なくそれは中断している。

どうしていいかわからないので、最初は文章の書き方系の本を入手した。
次に実際に更新されているブログをいくつか見た。

ブログの書き方について簡単に触れてある記事を見た。
いきなり書けるわけがないから書きながら成長しましょうといった趣旨だった。

どうしてそれでたどり着いたかはよくわからないが、恐らくそこまでかなりのものを見たり読んだりしていたので、頭の中でまとまったのだろう。
「私には自分の言葉がない」と。

自分の言葉というと「自分の言葉で考える」という表現が出て来ることがある。

私はごく幼い頃から「考えない」時期はまるでなかった。すべてが疑問だらけで、誰も教えてくれないし、仕方がないからいつも自分一人で考えていた。もちろん親になど聞ける関係ではない。ーーだから考えることなしに生きるということ自体も、その感覚も、わからない。

ただ一つ、ずっと無視してきたものがある。

自分自身のことだ。

無視はしていたが考えなかったのではない。
私は人のふりをした、高度にカスタマイズされたヒト型の機械のようなものだと、自分を定義していた。
それは当然ながら言葉で行われる。今書いたように。
それをさせているのは誰か自分以外だと意識しつつも、自分が人間であることを拒否し続けてきたのは、自分自身だった。

非常にたちが悪い。

私が何にカスタマイズされているかと言えば、他人の望みだ。他人が望むようにしか私は生きられない。

それは私から見た世界の話で、現実とはかけ離れている。「私が」「勝手に」「相手はこう望んでいるに相違ない」と「思い込んだ」世界だ。それでも、私はその世界の住人に従事することしかできない。

このカスタマイズがギリギリ機能してきたから私は何とか生き延びたのだろう。たちが悪いというのは、その私の脳内カスタマイズがたまたま現実世界で通用してしまうものだったから、誰も何がおかしいのか気づかなかったことだ。何かはおかしい、それはわかる。が、例えば発達障害だの精神科の病名の羅列だの、どれもあてはまりはするが、それに対処しても何も良くならない。

私が望んで来なかったからだ。

だって、存在意義を奪われてしまうから。

私は人間などであってはならない、けれどそれを、人間のふりをしているだけだということを、誰かに気づかれてもいけない。

その責任を誰かに取れというのが嫌になった。

それが「自分の言葉を持ちたい」と強く思うようになった、と考えられる。自分でありたくなったのだ。

まだ始まったばかりなのでそうそううまくは運ばない。
この記事だって酷いものだ。満足できる言葉なんかどこにもない。文章の書き方としてもかなり破綻している。
それでももう黙らされていると被害者面して自ら苦しんでいるのも、バカバカしくなった。

自分で自分を殺し続ける。
この感覚でいられるなら、平気で人も殺せる。

言葉で、だ。
それをこれまでしてきた。

この言葉について掘り下げるのは、またの機会にしたい。
それほど慎重に扱うべきものなのだ。

まだ楽しくなどないが、悩み甲斐はある。これから楽しくなりそうな、「もうちょっとで行けそう」というような手応えがある。

それは私にとって初めての奇跡なのだ。そして、これはそのうち奇跡でもなんでもなくなるのではないかと思っている。