悪夢から、醒めたのかも知れない
少々、間があいた。ブログというものの難しさに悩んだり本をあさったり考え込んだりしていたのだ。
このブログをはじめた理由は、私が自分の過去を何とかしたいというものだった。
どう書いていけばいいのかまるでわからず、とりあえずは時系列に振り返りをしないと読みにくいだろう、ということくらいしか思いつかなかった。
そういうことに縛り付けられ過ぎていたように思う。
私は決まりごとや言われたこと、考えて答えを出してみたことにとらわれやすい。特に言葉に弱い。そのため体調を崩し心が正常な状態でなくなるほどになり、入院していたのだ。
入院中、過去のことには思いが行かなかったが、過去の悪習、つまり過去の記憶から考え方、世界の見方ががっちり固まっていたことにようやく本当に気づいた。
これまでの数年間、そのことを私は知識だとか言葉でしかわかっていなかった。つまりは、全然わかっていなかった。
退院後一週間経つ今もまだ引きずっている。全然眠れないのだ。
それでも、こういうのを「憑き物が落ちたよう」というのだろう、今、私からの世界の眺めはほんの少し前までとはまるで違う。
何かが解決したりはしていない。私が強くなったりもしていない。生きていたいと思い始めてもいないし、死にたくないとも言えない。でも、もうあれだけ繰り返した自殺未遂も自傷行為も、何か外部からの理由がない限り、することはないだろう。
この変化は丁寧に説明していきたく思う。だが今言ったように何も解決はしていない。そもそも、過去を解決などできるものではない。
これでは何を言っているかほとんどわからないと思うので、今後ブログの書き方を変えようと思う。
こんなことをわざわざ宣言するくらい、私は自分で自分を閉じ込めてくくりつけていた。
しばらくしたら少しはまともな更新や、見やすいようなカスタマイズができると思う。恐らく再開は一週間程度の後だろうと見当をつけている。
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タイトルの悪夢というのは、私が長い間現実だと思いこんでいたものだった。
私は狂っていた。今その責任を誰かに負って欲しいとは思わない。
怒りを感じる機会がほとんどなくなった。
あとできちんと話したいから、これだけ言うーーー
私は特別に不幸だと思いこんでいた。それは、間違っていた。
幸福だとは言わないし、誤解を恐れず言えば、今も孤独だ。
独りで生きてなんか行けないと思っていた。そうかもしれないが、今そんなことを考えても仕方がないのだ。
「誰かがいるから生きていられる」「自分にとって特別な人がこう言うから」「だからこうしなければいけない」
「そうでなければ、罰を受けなければならない」
「言うことを聞いて取り入らなければ、何か特別なことをして差し上げなければ、人は離れるものだ」
「私には何も価値などないし、本当は無条件にこの世においてもらってはいけない」
全部思い込みだったが、それが現実だと思っていた。悪夢でしかないことに、もう醒めていいということに、何人もの人が尽力してくれていた。そのことに見返りなんかいらないのだ。
ただ私が元気になったり、楽しく生きていられることが、誰かを喜ばせるなんて、知らなかった。