NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

「被災」から「復興」へ向かう道 2017/01/07 0:39

 

夜行バスの人々

夜行バスの人々

 

 最近ちょくちょく開く本だ。著者当人がはてなでブログをやっていて記事を引用したこともある。発達障害精神疾患、その他何か抱えている人は読むといいと思う。特に何か考えたりしないで、ただ読めば良い。群像劇っぽいので(まあ群像劇なのだが)混乱しそうだが、追えなければそれはそのままで良い。ストーリーよりも言葉や個々のエピソードが大事にされている気がする。

 

私はこの本を発売後割合すぐに購入したが、ずっと読むことができなかった。元々、小説を読むことがかなり苦手だからでもあるが、抑うつ状態が酷くなってからは文字列を追うことも困難になっていた。その状態になってからもう6〜7年ほど経つ。その状態の人は多いだろうが、それでもというか、そういう人が読んで差し支えない。そもそもあまり小説を読めない人を想定して書いたそうだから。

 

 

著者は友人だし、昨年はずっと相談に乗ってもらっていた。

今年は全くやり取りしていない。こちらから連絡したが向こうからは何もない。

 

それだけ言えば別に普通のことだし、別に友人側に大した理由はないかも知れない。大体、そんなに暇な訳でもないのだし。

 

これまで何度もそういうことがあるたびに酷い不安にかられた。今もそうだ。

私が対人トラブルを起こしまくってきた、最大の理由がこの対人依存だ。さらに私は現実離れした感覚で生きて来たから、トラブルメーカーで当たり前だった。

 

こういった話を書くのは相当の苦痛が伴う。

済んだことよりも、今もってつらくなったり困ったりするとこの人ばかり浮かぶし、他に相談できる人をこれまでうまく持てなかったために、どう、何を言えばいいかがあまりわからないし、今も常にある心身の苦しい現象が強くなるからだ。今も息が苦しい。

正直に言えば今この本は苦しくなるので読めないし、ここに貼り付けただけでも「具合が悪く」なった。

 

連絡が取れない理由などよりもこの私の状態について考えるべきだと気づいたのはついさっきだ。

何回私はもう自力でもそうは問題を起こさない、できる、といった意味のことを言われたろう。そうは思えないで来た。

何かに際して「どうしたらいいか」といったことは山ほど教えてもらったが理解できなかった。

 

したくなかったのだ。

 

決してわかりやすい言葉を使う人とは言えないが、それ以前の問題だ。

私は自信があまりにもない、と他の人に言った途端理解した。何を言っているんだろう。私は誰にも理解されなくたって、過去にたくさんのことを乗り越えて来たり、克服したり、ここまで失敗や酷いことがほとんどだったけれど生き抜いて来て今も生きているじゃないか。それらはすべてが糧になる。

理解者が不要だったとは言えない。さすがにそれで生きられたとは思えない。私は主治医1人が理解者だった。もう1人、分かち合える人が現れた。十分だ。何も全部わかることもない。だけどここまで共有できたら十分だ。

 

ろくな過去はないが、基本的には自力で乗り切って来た。生きているだけでもその証だが、私は思い出したくなかったり、それらの意味をただの酷いこととだけしか考えられなかった。それは苦しいに決まっている。被害者としての証明に、病気にもなるし治れないだろう。

 

生きることに消極的にもなるし、恐怖を手放すこともない。

 

まだ済んではいない。私はすぐに忘却する。これまでの私で居たがるからだ。心はそうやって生命を維持しようとする性質がある。

 

だが、1回気づいて知ってしまったら戻れないのも心である。

 

これから「復興」するために、このことを忘れても思い出せるように、この記事を書いた。

 

できたら誰かの役に立って欲しい。

 

この記事の引き金になった、来未炳吾の言葉を置いておく。どちらでも書いている。

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「病んでる人は心のセーブポイントの作り方を知らないんだよね。辛い時でもあの日あの時の自分を思い出して、頑張れる秘訣だよ。」

脳の変化を起こすには 2017/01/03 18:04−20:45

私は特定の場所にいるとすぐにおかしくなる。アパートの自分の部屋である。このことにちゃんと気づいたので考えていた。それで出した結論が、ともかくもここから離脱することだった。

 

きちんと話そう。

 

うちは一間の居室に台所とユニットバスという造りである。以前から居室にいるとたくさんの症状が身体にも現れるし、精神状態が悪くなる。

 

いわゆる「ごみ屋敷」みたいな状態だからとか「PTSD」の症状とか何とか、いくらでも説明でき得るため、そういったことへの対策ばかり、私も支援者も誰も彼もが考えた。そしてすべて失敗中である。

 

私は昨日今日「感覚が目覚めた」状態だ。しつこく過去数記事に書いたので説明は簡潔にさせてもらうが、初めは主に呼吸が苦しくなり、しばらくの期間が経過した後、心身に激しい現象がたくさん起き始めた。少々の刺激で感情的になる、様々な感覚に見舞われる、「精神疾患の症状」と思われる現象がたくさん出現する。

まあ、どうかしたかとは思った。が、かなり滅茶苦茶だったにも関わらず、私が相談したのは医療機関などではなかった。何のことはない。私は救急車を呼べない環境にいるし、主治医のところは完全予約制で平素は対応しない。そして他には信じられる人がいなかった。人としてもだし、この状態を理解できうる、もしかしたら経験済みの友人1人以外には聞ける人がいなかった。

言われたことのすべて的中している訳ではない部分もあったが、理由については日々正解であろうという思いを強めるしかない。

私の感覚が変化して、これまでほとんど使われていなかった脳のあちこちの部分が急に活性化したと言えば良いだろうか。

 

その調整をしたのは相談した相手本人だが、方法はずっと付き合ってもらっていても理解できない。ただ、脳の感覚を変えることは別に不可能でも何でもない。今詳しい解説ができるほど私の状態に余裕がないが、雑学レベルの脳の仕組みの本でも読んでみれば当たり前だとわかる。もっともかなり先入観や固定観念を取り払う必要もあるかも知れないが。そして、それができる能力や理屈は普通別のことに使われる。現実感のなかった人間が安全に現実に入って来れるようにナビゲートするなどということは通常できないだろうししないだろう。そもそもできると思っていないからだと思う。

 

ともかく私は過敏なくらい様々な刺激に反応するようになったが、危険だとは感じない。ただ「異常に鈍麻した」状態から「何かを感じる」ようになった。それがまあまあ現実に沿っているであろうという感じもある。

 

コントロールはまだできないが、少しは慣れて来たように思う。

 

そこで居室に入ったとたんにおかしくなることを「ちゃんと」感じる。これまで皆でああでもないこうでもないと言って来たことはほとんど的を外している。少なくとも本質からは遠い。

 

乱暴に書いた記事だが

依存を破壊するには 2017/01/02 20:41‐21:23 - NIKITAのリハビリ的日記

ここに書いたことが恐らくその本質に近いか、そのものだと思う。

 

私はいわゆるPTSDだが、そのメカニズムは覚えていない。ただ「脳に大きな変化をもたらす体験により感覚が変わる」経験を何度もしただけだ。

 

継続的な刺激(経験)で起きる変化と、通常知られる1回の強烈な刺激(経験)で起きる変化を両方、複数回経験している。それで脳に「癖」でも「パターン」でも「回路」でも良いが、そういうものが構築された状態だと認識している。

 

なら、仕組みは同じではないか。その構築された回路をブチ壊せば良い。そういう体験をすれば良いだけだろうと思いついた。

 

完全には「良く」ならないようだが、少なくとも2人、PTSDから「恢復(かいふく)」した人を知っている。この変な字だが、「回復」とは意味が違う。回復は元に戻ることだが、恢復は新しく作り直して「良い状態になる」といった意味だ。

 

怪我を想定して欲しい。切ったりすりむいたりなどがわかりやすいが、あれは損なわれた組織部分が新しく作られて補われるのだ。だから傷あとが残ったりする。痕にならなくても、元の体組織ではない。それとまあ同じだ。

 

脳には可塑性がある、という言い方があるが、つまり変えられる、変わる、ということだ。脳の伝達ネットワーク組織である神経回路というものがいつまでも新しく作れるからだ。脳の仕組みを完全に覚えて理解しているわけではないが、変わるものは変わるのだ。

 

この変化を遂げたい場合、新しい、未知の刺激を繰り返し与えることでシナプスというものを作る。やったことのないことを繰り返しやり続ける。やめると、シナプスはなくなるのだったと思う。少なくとも1回できたら永久に繋がっているものではないのは事実だ。それも変化だから可塑性という。

 

このことを雑にだが思い出したのは今日の未明だった。昼間本を取り出してみたら合っていた。

 

思い出すも何も、まず、気づけなかった。

何十歳の、平穏に暮らして来た人が、一発で脳の「回路」をブチ壊される。それがPTSDだ。

私には平穏無事で戻りたい過去の自分など存在しない。今は感情的だからそう思うのだと思うが、基本的には過去に必要なものはあまりない。元に戻る必要は、ない。

ただ具合が悪くて恐ろしくて苦痛で、なのにそんなものに支配され依存しているのだ。これを私の人生だと認めることはできない。いつか認めるかも知れないが、それは今ではない。

 

まだ私は必要な変化を起こしていない。直感だったが、何かの形で知らない体験をする必要が、やはりある。ここに居続けていてはそれができる気は到底しない。ずっと酷い具合をこらえているのだ。こんなのは嫌だといくら思ってもこれまで何もできなかった。

 

無力であろうとし続けて来たのだ。今は怒りを覚える。酷い頭痛やら吐き気やら何やらするのは、このままでは変わるまい。薬なんか効かないのだ。

 

どうすれば良いだろうか。何ならできるだろう。

2017/01/02 22:16‐2017/01/03 1:24

苦痛に依存していると考えたのは昨年の早春だったし、実際に自分が発狂したかのような行動を取り出したからだ。

まるで詳しくはないのだが、1人でSMプレイをし始めたと言えば良いのだろうか。
英語人が主に使うブログサービスで情報を得たり要らんことを自分でもアップロードし始めた。だから日本語の語彙や知識がない。代わりに英語での語彙は無駄にある。

そのまま事故でも起きて死んでしまえば上々とも思っていた。

自分が一体どうしたのかわからなかった。自覚としては嫌だからだ。

でも、苦痛が欲しい。ないと耐えられない。性的興奮もする。それ以上に安堵感があるのだが。

普通に依存状態だろう。飲酒、喫煙、ギャンブルなどと置き換えてただ「興奮する」とか書いたらそのものだと思う。私はそれらには依存がないから想像だが。

 

誰か相手が欲しいとは思わないが、それは条件が合えば気なんか変わってしまうのではないだろうか。

レイプされかけたあとの話だ。この未遂事件後だからかと思わなくもなかったけれども、この数年は人との関わりでかなりきついトラブルが続いているから、もうどれがという特定をするのもどうかと思う。

ただ、どんどん追い詰められておかしくなっていたことは事実だ。書いたかも知れないが、私は自分が大人しく餌食にならなかったことにさえ罪悪感がまだある。

単に苦痛がないと耐えられないというのは、元は現実に存在しない理想の親がいて欲しいという発想からだ。私は苦痛なく何か与えられた経験がないからそれらが結びついていると思われる。

6年前の監禁脅迫以降自分がまともでないことは当然わかっていた。現実逃避はひどいし些細なことで強烈に攻撃的になるし、ほとんど日本語がでなくなっていた。ずっと意味がわからなかったが、たまたま少し関わりがあった外国の人たちと日本社会に普通に属する人たちとでは、あまりにも違っていたからだろう。もちろん今もその認識は変わらない。だからよく私はSNSで日本語がでなくなる。何も私は語学ができるのではない。こんなもの必要にかられればやるし忘れにくい。現実から逃げるには持って来いだ。

悪いことにその状態の私でもたいていの相手と口論になったり説得するようなことをすると相手は言い返せない。相手にされなかった場合も当然あるが、多くは私が言葉の扱いを勘違いしていたのだ。余計に相手から悪意を引き出した。事実であって、理由はこれ以上追い求めても自分を苦しめるだけだ。死ぬほど悔やんだ時期を通過したし、今も平気なわけではない。だから余計なことをして自分を罰したくなったりしたくない。悪循環だ。

過去のことがすべてではないかも知れないが、私は自分の意思とかいうものがわからない。どうしたいとかどうなりたいとか、そんなことは一番感じてはいけないものだった。私はただ鈍くなった。その強制力が一番邪魔だ。今は色々なことを鮮烈に感じるが、まだ自分の意思はほとんどない。だから何故そうなのかと思ったし、どうすればいいか、どうしたいか考えるのに何か手がかりが欲しかった。


依存しているのだろうと思うに到るのはそう難しくない訳だ。どうすれば消せるかあれこれ考えた。

考えるだけではどうやってもダメだろうと思った。
怒りを使ったってダメだ。これは異常に疲れて、かえって挫折感を呼ぶようだ。

思考、感情、これらだけでは足りないのだ。不要というのではない。足りない。

あとは感覚、意識がある。特に感覚は体験、現実の刺激が育てる部分が大きい。スポーツなどをしていたのでそれこそ感覚でわかる。

私は何でも体験が乏しいし、特に快適な感覚が育つような経験はしていても感じないようにして来た。

昨年は感覚を現実に合うように調整してもらっていた。大体できたらしい。だから私の思考や言うことは以前のような現実からずれたものではなくなって来ているそうだ。私はあまり自覚できないが、私をきちんとみている人たちは私がひどく変わったと言う。

そこへ今の感覚の変化である(詳しくは記事「どうしたら良いかわからない」、「難破」)。

あとは私が自分で掴んだり育てたりがメインになると思う。私の脳ミソの話だし、やっぱり自分の体験――外部から刺激を受けて脳や身体が反応することとでも言えば良いかと思うが。身体の反応だって脳の感覚だけど――からしか得特できないことのほうがほとんどなのだろう。

ここにいてはいけないと感じるのだ。この環境に。物理的に。本当は完全に離れられたほうが良いのだろうけど現実的ではない。一番は資金繰り。私は引っ越すことはできないし、いきなり働いて自活なんてのもまだ先に片づけることがあるからダメだし、さすがにそこまで冒険はできない。なるべくお金のかからない方法で一時的にあまり保護的でない環境へと離れる――旅行と見なされるようなことって可能なのだろうか。支援機関でなく他の人に聞いたほうが良さそうだ。この自治体に余計なことを言うとろくなことにならない。普通はある相談先がことごとく存在しないのだし。

何の自信もない。1人じゃなんにもできない。どうやって自力で旅とかするんだろう。数日程度だってそんなお金ないし、数日程度で何ができるんだ。


でも、他に全部1回ぶん投げて色々引き剥がす方法が浮かばないんだよね。
ここにいるままで何か変えられるようにはどうしても思えない。そして、私はここにいたいわけではないんだ。

ともかく何か。自分の力を、自分をどうにか使い切れる何か。自分を信じることに繋がる何か。

でなきゃ、いつまでもろくに会話もできないじゃないか。いつまでも私は強がりながら怯えながら助けてもらっているだけだ。全然追いつけやしない。今だってどうしたら良いかわからないのだ。悔しさもあるが、絶望的になることのほうが強い。

依存を破壊するには 2017/01/02 20:41‐21:23

結論から言うと私はここにいてはいけないと思っている。

現実の話。

 

こんなもの何も目新しい話じゃないんだけど。

 

一応経緯を簡単に言うと

 

なんで簡単に絶望するのか
特に一定の場所にいると具合が悪くなるとか
誰に何言ってもらっても結局難航し続けるとか
恐怖が消せるように持ってけないとか
言葉がわからないとか
怒ってられないとか……

 

とにかく全部疑問だらけだけど人に聞いたってわからない
他の人の話で解決できるならとっくにしてるはずだ

 

だから総合的なことを考えた
私固有の問題は何か

 

別に難しくなかった
「依存」してるだけだ

対象は「苦痛」

スタートしたのは親

それを利用して破壊的な体験をさせたのは少なく数えて2人の男

 

それを続けたのは私だ

ものすごく怖くて、死にたくなかったからだろうが、逆に自分を苦しめている

当たり前だ、苦痛なんだから

だから変な症状は出るし、自分を苦しめるようなことをわざわざする

苦痛がないと落ち着かない、なんてレベルじゃない(もちろん落ち着かないが)

 

私は結構不健全な人間だと思うが、理由がよくわからなかった

わからないままじゃハマるわな

やめようとしたってやめられるわけがない

悪趣味なことはいくつか続いている

楽しい気はあまりしない

楽しいというものじゃないからね

言ってみれば「苦痛」そのものが「ご褒美」なんだろう

 

自殺は別に依存対象じゃないけどもう数えられないほど失敗したし昨日もしようとした

それは絶望しかけたからだ

 

もうそんなの嫌なんだ

 

そういったことを相談しないで来たのにはいくつも理由があるが、ひとつは自分ではわかっていなかったからだし、こんな話を受け止められる人もいない、受け止め方も間違える

 

第一に、当然怖かったし恥ずかしかったしね

言わなかったのは結果的によかった

どーせ医者だセラピストだってなるだろう

そういうもんじゃ私が依存してることに拍車をかけるだろうね


主治医は私にとって友人みたいな関係だから友人としてなら話す意味はあるし、その意味ではかなりの有効な助言をくれるだろう
医者としてではなく

でも限度がある

そんなに暇なわけじゃないとか、そんなところだ

 

もう経緯を思い出せないが

 

「私はここにいちゃいけない」

 

それが暫定的な結論である

 


何のこっちゃない
直感と、グダグダ依存についてわかる限り考えたら他に浮かばなかった

 

そもそもこんなもの皆やってるこった
私が相談した人の多くは大きなことに直面した時、1箇所に留まってない
当たり前だ
環境が悪いのは自分も悪化に加担してるからだろう
そこに居続けりゃ何も良くならないに決まっている

 

主治医もそう、前に相談してた僧侶もそう、皆どうにかなる目処が立ってからは引っ越したりが減ってるけど、日本を出た人結構いる
今は平気で都内にいたりする人もいるけど聞いたら「日本にいられなくなった」とだけしか言わなかった

 

人は何にでも留まりたがるんだわ
嫌なことでも
もう理屈はこの百倍積み上げたから良い
考えるの本当に疲れた

 

ひとつ言うと私が悪いとは思ってない
わかんなかっただけだ
もうそんなことは過去だから良いんだ
意味がない
先も考えたくない
来てもないのに

合ってるかどうか?知らないけど合ってると思う

証明する人だらけじゃないか

 

 

どうやって現実に落とし込めば良いかしか考えたくないけど知恵が足りん

 

何せこの示唆何回も受けてるんだもの
頭悪いとは思うけどしょうがない
それをブチ破りたいんだから

 

明けましておめでとうございます 2017/01/01 0:52

今、特にTwitterで会話できないので、代わりにこちらでご挨拶を(アップできるかな?)

 

旧年中は大変お世話になりました

正直に言ってメチャクチャにきつい、大変な年でしたが、とても意義深い年になりました

 

支えられていることをこんなに感じたことはありません

 

本年は初めて尽くしになると思います

自分がしたいことをする、ありたい私であるようにする、それらは私にとっては全く経験のないことですが、そんな挑戦をする所までずっと手を掴み続けてもらいました

 

何も怖くないと言えばウソになりますが、少なくとも、もう、以前の、皆さんのほとんどが知らない自分に戻る気はありません

 

今年は少しずつ頑張り方をちゃんと身につけたいですね

 

自分のために

 

皆さんも、自分のために生きて行きましょう

一緒に

本年もよろしくお願い申し上げます

 

NIKITAこと有末

「難破」2016/12/29 19:31-22:29

「遭難」でも良いが、ひとまず現状を表すとそういう感じだと思う。

 

このところまるで冷静になれない。落ち着けばわかりそうなこと、できそうなことが全然、そうできない。考えることも、きちんと相手の話を聞く、読むことも。怒っているからかと思ったが、違う。色んな感覚やら感情やらが目一杯振り切れそうになりながら動くからだろう。簡単に言えば脳が高い覚醒度のままずっと全域にフル稼動している、という状態だ。前の記事で取り上げた話だが、ビンゴだと思う。

 

疲れ方が「乖離」を起こした時と似ているのだ(かいり。離人症・りじんしょう、とも言う。どういう症状かと言うと「現実感の極端な欠落。自分がしていることもそうとは感じない。見える景色も平板に見える。感じることを極度に抑えるので考えることもよくできない」など。ぼーっとしていると思ったら大間違いで、これは脳が凄まじいエネルギーを使ってやはりフル稼動で無理矢理起こす現象なので、メチャクチャに疲れる。正気に戻す方法はあまりないし、「感じないこと」で自分を守っているので、起きたら無理せず寝ていたほうが良いと言われる。まあ実感のない状態で何かするのは危ないから、とりあえずはその方がいいと思う)。ちなみに私は記憶にある限り30歳くらいまでずっと日常的にその状態のままだった。あることをしたら解除できたのだが、それでも病気と言われる程度ではなくなった、というところまでだった。

 

今は自分の主観的には正反対である。「何もかもを感じ過ぎる」。落ち着けるわけがない。現実感がないのではなく、字義通りのパニックを起こして脳の処理ができてないような感じ。

 

知識的なことはとりあえずそんなものだと思うが、何も自信がない。私はつまり現実にいた経験がとても少ないのだ。自力である程度現実に足を踏み入れたことにはなるが、私だけの力では現実と折り合いがつけられなかった。私にはそんな力はない。逃避したままだった。

 

だからこんな状態は完全に初めてなのだと思う。

 

ともあれ、ただ読むだけ聞くだけができないのだから理解もできない。そして私自身は言葉が出ない。見かけ上は出ているがまともな会話なんか全然できていない。

 

その意味では昔と何も変わってない。その場では返事が浮かびもしなくて、でも返答しないわけにも行かないからそれっぽいことを言う、結果ろくなことにならない。当たり前だ。何言われてるかわからなくて自分も言いたい聞きたいことがわからなくて、わかっていても言語化できなくて、なんで会話が成立できるだろう。ちょっとした食い違いの程度ではない。

 

詐欺から監禁されたあの時とどこも変わってなんかいない。騙されて強姦されそうになった時からも変わっていない。いつも一方的に言われてあとから別の人に指摘されて自分がおかしかったということだけしかわからない。何がおかしいのかはわからない。それはこうしたほうが良い、これはやめろ、と言われても何が違うかおかしいのかわからない。こうしたほうが、の中身もわからない。

 

端的に言うと、私は言葉がわからないのだ。

 

それがわかってもらえないとメチャクチャに困る。でも、どうやっても理解できないようなので、私が言語能力と知識を死ぬ気で身につけようとして来た。これは何十年単位の話だが。幼い頃からずっと私はそれをやって来ていたのだ。何も訴えられない私は何があっても放置されたから、嫌でも似非でも言葉と知識を獲得しなければならなかった。

 

 

完璧に余計なことをしたのかも知れない。

何も身についていないことを見抜くのはいつも悪意の人間ばかりだ。

気づかない人は悪意なく私を「できる」と言って、あとでトラブルになる。私はできることとできないことは言うのだが、そもそもその訴える能力がほとんどないようなので、何も伝わらない。

 

私自身、自分がここまで理解力の低い人間だとわかったのも最近だし(低いということは知っていた)、それがここまで伝わらないこともわかっていなかったが、何よりこれらが招く結果がここまで自分を困らせるものだと思っていなかった。わかってもらえないとこんなことになるなんて。こんなにも自分の何かの身につかなさ、変わる能力のなさ、どうしたら良いのか全くわからないこと、それを相談する力もないこと、相談しないで自分でどうにかできると思っていたけれどそんなの全然間違いだった、でも誰かに困っていると言おうにも言葉が全くわからないこと、それが相手にはわからないこと、わかってもどうもできないこと、これらをわかっていなかった。

 

 

初めてだ。私は生きていたいのに、生きられない、とはっきりした感じを持つのは。

 

 

絶望したことは何度かある。どの時のも、誰かがわかるようなものだとは思わない。指一本動かなくなる。自殺もできない。

 

どの時とも違う。だけど、そっくりだ。今の私に抵抗する力はない。何に抗うのだ。今首を絞められてる感じにか?放っておけ。別にさして苦しくない。どうせ現実じゃないのだから勝手にさせておけばいい。私が今苦しく思うのはそんなことじゃない。第一、それを振り払えるほどの力は入らない、出て来ない。疲れた。

 

感情の起伏が激しい状態なので、どうせ後で激昂するのだろう。今怒る体力なんかない。

 

こうやって何とか書いてはいるけど、これ以上余計なことを想像しないためかも知れない。もう疲れてたまらないから、寝ると思うけど。

どうしたら良いかわからない 2016/12/29 4:12

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難航中 2016/12/28 18:10 - NIKITAのリハビリ的日記

でゴチャゴチャ書いたが、相談したら一応納得いくこと、「今の状態の要因として予想されること」を言われた。

 

「今まで使い慣れていない脳の部分を使うようになったから、色々な刺激に鋭敏になっている。そのためにすべての感覚のスイッチがオンになっているような状態で、あらゆる種類の意識が働いている状態」大体こんな説明だった。「それでパニック症のような状態なのだと思う」

 

その推測が外れているとは思わない。よく私の少ない説明でそこに行ったと思ったけど、そんなことはいつものことなのでもう私は追いつこうとしてもしょうがない。今それどころでもない。

 

その状態だからやたら細かいことまで気になってしょうがない。

 

当然だが言われることがすべて当たる、私を全部が全部理解できている訳がない。そこまで気になる。

 

古典的な精神医学で「精神衰弱」という。何でも些細なことまで拡大して感じてしまう状態だ。入院時など起きやすい。一般的な言い方で近いのは、「近視眼的」「視野狭窄」あたりだろうか。

 

当然だが打たれ弱くなる。ひどく感情的になる。冷静になるなどほとんどできない。

 

その部分は経験があるのだが、私からはごっそり抜け落ちていることを言われて困っている。

 

「怒りの感情」と「感覚」だ。正確には感情については何か言われてはいないが、推し量ると入るように思う。

それらがもちろんゼロだったわけではないだろうが、指摘とは全然かけ離れたものだったことに間違いはない。

 

これまでに何らかの変化が起きた時に、こういった症状は起きていた記憶がない。

物心ついた時からずっとこうだったのでは、という指摘もあったが、そちらはありえない。

 

私は感情も感覚も、実家ではかなり封殺していた。怒れるようになったのはごく最近であるし、今のような状態などなったことはない。

 

今年の最初までは。

 

訂正したいとかいうより、他の家庭では「機能不全」であっても、こんな状態になっても大丈夫なのかと驚愕している。私の実家でこれはありえない。

 

本当に、死ぬ。私は彼らには本当に「モノ」で「道具」なのだ、いつでも何があっても即、役に立たねばならない。それができなければ何をされたかわからない、というより何もしてくれなくなるのは脅しとしてしょっちゅう言われていたので、子どもだった私が反抗心など持つどころではなかったし、こんなふうに動けないとか息が苦しいとかいう状態になっている状況ではなかった。

 

実際に彼らを知る主治医に聞いてみれば良いと思うくらい、抵抗感を覚える指摘だった。本当に何度か放置で死にかけたのだから。

 

だが、それは今の嵐の状態が過ぎればどうでも良くなる、と、思う。

問題なのはその後の話だった。

「新しい感覚を鍛える」

これはどうしたら良いのだろう。

 

私はあの助言のままでは、機械に戻るような危惧を覚える。

だいぶ感覚に手を入れているから、本当に前の私には戻りようがないと思うが(心というのは何か新しいものを得たら、何か知ったら、変化が起きたら、元には戻らなくなるようにできている。それはさすがに私でも知っているしわかる)、昔のように振る舞うことが怖い。それは慣れたことをしてしまう習性だ。心自体は変わっているから、平気では居られないだろう。

 

居られる訳がない。が、どうしたら良いかやはりわからない。

 

このやり取りのあとに続けた話がかなりきついものだったので、さらに困っている。参っただけでなく、これまででも何か相談するのに必ず凄まじい躊躇があったが、もう、あれでは、何も言えない。

 

元々そういう人なのだけど。はっきりと言うだけだし、私の状態に合わせたら際限もない。それでは、私が自分で解決する力もつけられないだろう。だから恨むとかいうのではないのだが、困る。

難航中 2016/12/28 18:10

どうも上手く行かない。

最近色々と苦しい現象に見舞われた状態でしか記事を書けないのでもどかしい。

 

吐き出したいのでそれでも書くのだが。

 

 どうしたいか? - NIKITAのリハビリ的日記

 

この記事に相談をしたという話を書いた。

その相談以降、特に聞きたいことは浮かばなかった。

 

ログをとってあり、読み返すと、それ以上聞くことは出て来ないのだ。

 

こういうことがいきなり大きく進展するものかどうか知らない。私も友人も医療やセラピーの類を過度に頼ったり、まして鵜呑みにはしないから、それらは基準にならない。そういったものの尺度で言えば、そんなに短期間でこの問題は変化しないし、私の過去受けた扱いや出来事の大きさ長さからして、またその後にされ続けている扱いや状況からもだが、「ほとんど何も改善しない」らしい。

 

まあそうだろう。

1人、私とは天地ほどの違いがある環境にいる友人がいて、1回、私のような目にあったらしい。詳細は知らないがその後どうなったかは聞いた。

病気としては同じ道をたどった。山ほどの重篤な疾患を発症した。

病院でカウンセリングを受けるよう指示されたが、家族が様子を見て拒否し、全力で勉強して理解に努め、絶対的な味方であり続けたそうである。

今更羨むような感情はない。そもそもがそれ以前の問題だから、そんな感情は湧きようがない。単に驚いただけである。その人は恢復したのだ。私が自分の話をしても、その人が病的な何かにやられることはないらしい。

 

私は家族という集団に対して全く、欠片程も良いイメージが持てないし、愛情などという言葉を出されても意味がわからないので困ることしかできないのだが、どうやらそういう経過をたどり、その後も大切にされていると、ほとんど大丈夫な状態になるらしい。実際、とても人柄が良い。私が四の五の言うのにもつきあい続ける。とても若い人なのだけど。

 

だから、理解はあまり、互いにできてはいないと思う。それは特には友情に響かないものだし、理解に努め続ける関係だし、その人がそういう経過を辿っていることは私には嬉しいことだ。家族に恵まれるということがどういうものかを教えてくれる存在でもある。私にはそういうお手本がなかったので、ありがたい。

 

だいぶ余分な話もしたが、それを聞けば私が恢復すること自体、ありえないと判断しても仕方がないなと思うのだ。私の今の環境、状況も良いものではまるでない。

 

でも、私は相談した友人に手伝ってもらって数か月で、以前から私を知る人がびっくりするくらいの変化を来たしている。それでも彼に言わせれば「難航している」らしい。

 

私の主治医は友人がしている主張やしていることを受け入れているし、私からも私の理解の及ぶ範囲では彼についてきっちり話してあり、やり取りの記録も渡すことがある。特に否定的なことも問題点も指摘されたことはない。

 

長く私の理解者と呼べるのはこの主治医しかいなかった。主治医の話を1度まとめたことがあるが、友人のほうも的確で現実的な先生だと言った。つまり何かおかしいことはどこにもないらしい、のに。

 

一番ものを理解していないのは私だとはわかる。

余計な経験はあるが、あまり役立つような、意味のある体験も、それに恐らく伴ってついて来るだろう知識も決定的に不足している。

 

それは昔から指摘されることがあったが、どうして良いかわからなかった。何故こうも邪魔が入るのか。

 

今はある程度わかっているが、全然足りないだろう。

 

昨夜はちょっと意味がわからない状態になったし、さすがに限界を感じるので、こんな時期に悪いなと思いつつ、友人に声をかける。

 

私をこうも理解してくれて(当然完全な理解などがあるとは思わないが)、相談に根気よく乗ってくれる人も、解決法を知っている人も、この人1人しかいないから。

 

悔しくもあるけどね。何故こうも私にはできないことが多いのだ。何故、ここまで限界点が低いのだ。――何故、きみにできて、私にはここまでできないのだ。

 

助けはほとんどなかったから、私も大まかには1人で生き延びたのだけど。誰もそうは思わなくても。

 

私の人生を寸断して来たのは、さて、何だろうか。

 

まだ仮の結論ならあるけど、それをここにゴロッと放り込む気にはなれない。

「記憶」2016/12/25 18:47

最近、本当に些細なきっかけで色々なことが心に起きるようになった。

 

現象そのものは身体に起きるのだけど。普通、それを「身体症状」と言う。そして原因が心の負担であるとき、「身体表現」とか「身体化」とか言う。

 

あまりそういう用語は使うものじゃないなとつくづく思う。話が本質から遠ざかるからだ。つまり、自分の心に起きていることをきちんと把握や理解することができないから。

 

少し面白い話を主治医から聞いた。医学生時代、必須の授業だったそうだが、「絶対に普通に使われる言葉を使わずに身体部分を説明する」ということをするのだそうだ。

 

つまり、例えば腕というものを、腕とか皮膚とか肉とか骨とかいった、一般的にわかる言葉を一切使わずに説明するのだ。

 

何に使う技術だか、主治医はやっぱり今でも説明はできないが、何となく必要性はわかる、と言った。

 

いや、これじゃないのか。

 発達障害特徴の克服その2『コミュ障はこう治せ!』 - HyogoKurumi.Scribble

 

医者のコミュニケーション力が低くては文字通り話にならない。色んな人たちが色んな状態でやって来るのだから、把握や説明がうまくなくてはならないからじゃないだろうか。

 

と、人様の記事を使って自力で説明をせずに済ませてしまったが、今私はそれどころではないのでこれくらい勘弁して下さい頼むから。

 

記事を引っ張って来るのでいっぱいいっぱいです。

 

さて、本題。

 

例えばこのブログを書いたあとなどはまあまあ、酷い現象が身体に起きるのが最近だ。

 

名称を言えばパニック障害だし、そのいち症状である過呼吸発作のうち、呼吸困難になって息が止まるタイプ、ということになる。恐怖感もガッチリある。恐怖感があるとパニック障害、なければ過呼吸発作、と大雑把に思えばまあいい。

 

これでは何も説明していない。症状そのものが問題なのではないからだし、この病気を知らない人が見てもその症状さえわからない。

 

病名も症状もどうでも良い。だってそんなもので何が把握だの理解だのできるのか。「なんか大変だね」と思うか一緒に慌てるだけだ。

 

起きている事実の部分を言うと、

 

・息がよくできず苦しい

・みぞおち辺りに強い衝撃を受けたような感じ(子どもの頃、ケンカで一度だけ殴られた。その感じにそっくりだ)

・肋骨の下辺りをぐるっと一周、締めつけられる感じ(もしかしてコルセットを間違えて締め過ぎたらこうなのか?というような)

・身体がこわばって動けずひっくり返っているしかない

・血圧と心拍が上がっている感じがする(計測した経験からなので「感じ」)

・手などの末端が震える感じ(実際には力を入れるのが困難なだけである)、しびれる感じ(これは呼吸がうまく行かず、し過ぎている時もあるため)

・吐き気

・頭痛(主に前半分。前頭葉だ。頭を使って負荷がかかると痛む箇所)

 

・恐怖感などで心がいっぱいになりそうになる感じ

 

最後のだけが心の話だが、わざとはっきり説明しなかった。

 

精神の仕組みの話を何人かにされている。

 

何か強めの苦痛を感じる時、苦痛は基本的には不安や恐怖を引き起こす。死ぬのを避けるためだが、つまり不安や恐怖にはあまり実際の根拠がないのだ。その時に現実に死にかけている訳でもない限りは、自分で作り出している。

 

だから、その感じに注目していると、人は際限なく想像力を働かせてしまう。どんどん、余計に怖くなる訳だ。

 

これを繰り返すと、言ってみれば脳の回路に「焼き付く」。考える前に思い起こしてしまうようになる。

 

これがいわゆる精神疾患を悪化させ定着させる。

 

逆に言えば無視しておけということだ。以前消防士の知人から「そっちへ行くな、呑まれるぞ」と言われたが、そういう言い方もあるだろう。

 

さらに、それだけでは焼き付いた回路が消えないことを先日指摘されたのである。

 

考えたらものすごく当然なのだが、推測するに、私のように本当に一度も安心できる状況にいた経験がないまま40年過ごした人が私の周りにはいなかったのかも知れない。

 

本当に、一度も安心したことはないと思う。

だから私の脳内には絶対に事実ではなかろう「記憶」が相当ある。それに注目してはいけないのだとかいったことがまるでわかっていなかったので、それらの「記憶」が余計に私から安心材料を奪ったのだろう。

 

安心して良い時もどこかにはあったかも知れない。もう過ぎたことだから追いかけはしないけれども、そんなにすぐには割り切れない。

 

それはそれとして、困っている。

事実ではないなとわかっているのだけど、だからとりあえず今しか書いたりしないが、呼吸がかなり苦しくなるのは、首を絞められている感じを伴うのだ。そんなことは誰にもされていないのだが。仰向けにひっくり返った姿勢しか取れないで動けないのはそうやって押さえつけられている感じを伴う。

 

はっきり言ってしまうと(必ずしも毎回ではないが)強姦されている感じだ。

 

あれは未遂にさせたし、そういう姿勢になった訳でもない。

 

 監禁された時の記憶は詳細まで行くとぼやけるのだが、言葉などで脅されて誘導的に動けなくはされたけれど、押さえつけられた記憶はないし、物理的な拘束もされていないことになる。

 

実家は、そういうこと、ようするに物理的な接触自体をすることはなかった(幼児期に抱いたり背負ったりされたには決まっているのだが、私の記憶からはそれらは抜け落ちている)。記憶が脱落していなければ。

 

けれど、私の「記憶」には「みんなに襲われる感じ」がある。

事実ではないと理解しているのは、精神疾患の人達との交流経験があると思う。ありえない記憶を作り出して本気で信じている様子を結構見たから、自分の記憶もなんとなく嗅ぎわけられるような気がする。

 

そういうファンタジーまで信じ込んでいないのは良いが、感じは取れない。

 

先日、あまりにはっきりそういう感じが強くて、「どうしたいか」決めた。もう疲れきっていて考えたくなかったので、それで満足してやることにした。ものすごく物騒なことだから書かないでおくし、当然実際にする訳でもないが。やりようもないことだ。

 

そんなに普通に思いつくことじゃないのかなと思うのだけど、私にとっては割と普通に思いつくことだ。オーソドックスで別に面白くもないけど、そもそも面白いとかそういう話じゃない。もしこれで私が残虐な人間だと思うなら、そうさせた人達に言え、と思う。そう思えるならもうこれでいい。これ以上追及して労力を使ってやるのも嫌だ。しばらくは考えたくもない。本当に、考えたくない。

 

怒りがどれほどエネルギーを消耗するか改めて思い知る。そして、決めてしまえばこんなにラクなのか、と。それ以上悩まなくていい。確かに悩むのと考えるのでは全然違う。悩むって苦しいだけで何もしないんだもの、何も進まない。しばらくしたら考える気にもなるかな。

 

それからも苦しい現象は起きているし「記憶」は書いた通りだが、何とも説明できないけれど、何かいきなり感覚が変わった。

 

あまり、特に言葉を用いるにあたっては、早急にするものではないなと思う。結論を急いでろくな結果になったことはない。

 

※しんどかったので本来分割すべきだろう内容を詰め込んでしまいました。何文字かわかりませんが。分ける体力はもう残ってないし、とりあえずアップします。あー頭痛い……。

2016/12/23 11:33 結婚とかについて考えた。

私が結婚を選ばなかったのは、多分間違いではなかったと思う。

これまでは。

ろくな家庭や夫婦を見たことがなかったので、私みたいな育ちをした人達が結婚するのが理解できなかった。

実際に何故したのか聞いてみるとやっぱりよくわからない返答が多かったが、1人、「実家から逃げたかったからだと思う」と言った人がいた。

それなら全然わからないとは言えないけれども、私がずーっとわからないで来たのは、自分がまともな育ち方をしていないのに、皆が口を揃えて「だから自分は幸福な家庭を築くんだ。子どもにはつらい思いは絶対させない」と言うことだった。

私はごく幼い時に、自分の両親がそれと全く同じ思考過程から結婚して私達子どもを生み育てているのが理解できていたから、自分がそんなことうかつにする訳に行かないと思っていた。何故知らないことができると思うのだろう?子どもに対して責任感が軽すぎないか?―誰の話を聞いてもそうとしか思えなかった。

私が接したパートナーやその候補になりかけた人達は全員が子どもを欲しがった。私ははっきり言うと死んでも嫌だった。どうしても自分がまともに子どもを育てるなんてできるとは思えなかったし、そんな賭けをするのが嫌だった。子どもは私達の玩具でも所有物でも、クジでもない。

その話をきちんとできる関係さえ築くことができなかったのだから、結婚なんてできる関係にもならなかった。する気も起きたことはない。

その、過去の選択自体を悔いてはいない。予想通りになっただろうと、色々あった今は余計思うので。

ただ、今はこれで良いんだろうか、と思う。

よく考えたら、これは私の選択じゃないんじゃないだろうか。私は好きで独りなのではない。本当は、機会があれば、独りでなんかいたくなかった。上手く行かなかったから、そして、そこまで誰かを信じるなんて、怖くてできなかったから、それだけじゃないのか。

70や80歳で言葉も通じない同士で結婚する人達もいるくらいだから、そんなに辛く思わなくても良いのかも知れないけれど。

何がつらいのかやっとわかった。これは私が本当に自分で選んだことじゃなく、仕方ないからそう思っていたのだ。だからこれは悲しいとか寂しいとか言うよりは、やっぱり悔し涙なのかも知れない。
 
(以上、facebookに投稿した内容をそのまま転載)
 
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転載だけして終えようと思ったが、何故こういう話になったかなど書き足すことにした。
 
少し前に友人がSNSで発言していた内容を思い出して、なぜだかはっきりとはわからないが涙が止まらなくて困ったので、言葉にしてみたのが上記の文章である。
 
私はこうやって書き出すとある程度何なのかわかったり整理がついていくことが割合多い。それでも色々と難航している方だ。
 
その「難航している」ことや前の記事で「自分がどうしたいか考えたことがなかった」ことを話していた後に、友人の発言があった。
 
精神疾患の人が薬をやめていくことを難しいと感じていることに違和感を覚えたがそれがどういうことか、という話だった。私はそれを引用して文章をくっつけたのだが、正直、核心に触れることができなかった。書かなくても別にいいことがほとんどで、本当に触れるべきだったのは上記の内容になる。
 
SNSというのは「フロー(流れ)」なので、その場でアクションしないと消えていってしまうのが不便に思うことだ。私がシェアしたのは考えたくて「ストック」したかったからだった、という面が大きい。大体が何かを理解できるなんてものすごく時間がかかることなのだと思う。そしてできるのはある程度までだろう。
 
ここにまでその発言を引用するのがまだつらいので、それはしないでおく。
 
あまり心情とか感情とかいうものに焦点をあてたものの言い方をしない人なので異様に印象が強かった。というか、読んだ瞬間から泣くのをこらえていた。最初は悲しかっただけのように思う。いきなり核心に触れられる訳がなかった。私にとって、とても大きな苦痛に直結することだからだ。今このことを書くためにもう一度読んだが、やはり私にとってはきつい。恐らく、同じような境遇にいて、その自覚がある人にはやはりきついだろうと思う。自覚できている人はあまりいないという論調だったけど、そうだろうなと思う。そういう人は受け止め方が違うはずだ。ほんのちょっと前の私のように「嫌なことを言うな」とか思うんじゃないかと思う。
 
引用なしで話していてもなんだか伝わらないだろうけれど、私にも耐えられる限度がある。
 
それでも、何十年も避けて通ってきたことが数日でこうして言葉に直せただけでも結構なことだろう。結構、というのは「良かった」とかいうことじゃない。そりゃ良いか悪いかで言えば良いことだろうが、そうじゃなく、自分が以前とは随分変わったかな、ということだ。もっと言うとここまで来るまででもものすごく大変だったのだ、本音を言うと。それでもまだかなり課題が残ってる。本当に1人でこんなことしているんだったらとっくにめげていそうなくらいには。
 
今自分がどの地点にいるのかというのは、実はあまり掴んでいない。ーー恐らく精神疾患発達障害などで悩んでいる人って、こういう感じなんだろうと思う。今自分がどこにいるのかわからない。つかめるものだとも考えていない。そもそも、そんなに変われるものだとも変えられるものだとも思っていない。と言ったのはおおむね友人なのだが、本当にそうだなと思う。数か月前までは私もそう信じ込んでいた。そして英語に切り替えてネットで世界を見ると、世界中の人がそう信じ込んでいる。それは、とても残念なことだし、自分達で自分達の首を絞めることにもなっているのだけれど。
 
余談なのだけど、それで気になっていることがある。
「この世はゲットーだ」とかいう歌詞が何かの歌にあったのだが洋楽を訳したものなので原曲がわからない。ゲットーというのは中世及び第二次世界大戦の時にヨーロッパでユダヤ人が強制的に居住させられた地区のことだが、こうして比喩にもよく使われる。要は地獄だの何だのと言いたいわけだけど、そう言って放り投げてしまうのはやっぱりあんまり良いことじゃないなと思う。実は元々ロックはそんな歌詞が多いらしい。今もそうなのかは知らないが(私は英語がそんなにはできるわけじゃないので)、そういうのはいっとき憂さ晴らしにシャウトする程度にしておきたい。もちろんそういう発想とかがあるのは当たり前で、それを思うなとか、不健全は絶対いけませんとかそういうことを言うわけじゃないのだけれど(私だって相当に不健全な「カルチャー」は好きだし、そういうのが全くない世界なんてのもあり得ないのだから)、それにあまり傾倒するのはまずいよ、と言いたいのだ。
 
だって、そう思っていたら、つまり「世界が地獄だ」とか思っていたら、その人の世界はそうなってしまうから。言葉と心ってそういうものだ。