NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

2017/09/19 7:46 NIKITAの能力使って下さい。(半分はtoメンバーへ私信)

今年に入ってから現在までの間に、どうやら自分は相当変化したか何かしたらしい。それで戸惑っている。

6月からマストドンというSNSに参加しており、現在はほとんどそこにだけ顔を出している。いくつも掛け持つ余裕がないからだ。
積極的に書き込むようになり出したのは6月の末か7月のはずだが、主に自分の言いたいことの吐き出しに使っていた。あまりSNS向きの使用法とは言えないので、当初はほとんど人と交流する気はなかった。完全に本音しか言う気がなかったからである。ほとんどが愚痴の類いになるので、わざわざそれ用にアカウントを用意したほどだ。

何故か仲間ができていった。自分の言っていたことは決して愉快なものではなかったと思うし、いつもカリカリしていたし、書きにくくなるので実はフォローされたくなかったのだが、結局はフォロワーがついたり交流相手ができたことで多大な成果を得ることになって行く。

マストドンTwitterに似た形式で、1つの発言で500字まで書ける。以前私はあまり考えずに短い文章を書くと520〜1,100字程度になっていたと思う。今も制限がないとダラダラ書いてしまうのだが、500字での書き込みを8月半ば辺りで5,000〜6,000回はしていた。もっとかも知れない。これで人目があるので、意識しないようにしてもやはりかなり意識して書いていた。と言っても何かをオブラートに包んだり遠慮してやたら省くような方へ行ったのではない。本音を思い切り言っても差し支えない人達であるらしいので、明確に正確に近づくよう言葉を選出して、1つの発言にごちゃごちゃいくつもの内容を入れない、読んだらなるべく狙った通りに伝わるように書く練習になって行った。それだけ言葉を大事に考えて書く人が何人かいるので、とても刺激された。また、自分の書くことを楽しむ人がいるということがあまりにも意外だったのだが、悪い癖でその人達に合わせるようにしていたりもした。習慣としてはあまりいいこととも思えないのだが(その頃はかなりの葛藤を抱えていた)、それでも何にでもいい面も悪い面もあるもので、頭の回転が速くなった。非常に具合が悪くて入院中だったが、テキストであればかなり即答で色々な話に合わせた返事ができていたと思う。

そのうち、人の発言に対する自分の反応が変わっていった。
表層に現れる言葉に振り回されにくくなってきたのだ。

嫌なものは嫌なのでさっさと怒る(またはキレる)。が、極端な例を除いては、見たから、言われたからと言って動じることが激減した。言葉尻がどうこうよりも、何を言わんとしてその言葉が出たのか概ね察しがつくようになったのである。怒る理由も即時に「その人がどうしたいか」ということに目が行くようになったのであり、表面的なことにあまり惑わなくなった。自分の本音を書くのに言葉を吟味するのが習慣になって、相手が書いたことから推測する力が伸びたらしい。そして自分が何を嫌がるのかがはっきりしてきたのだろう。

言葉の選出には背景がある。何故その言葉が出たのか、どういう思考をたどるとそれになるのか、混乱しているのか、見下したいからなのか、考えが足りなくてその場にそぐわないのか、余計なことに気を回し過ぎなのか、相手の言葉を読み取ることが不得手なのか、相手の言葉(の一部)に振り回されているのか、言葉を扱うことに慣れていないのか、現実から離れてしまっているのか、自己評価が低いからなのか、など、何となくネガティヴな例が並んだが、そういったことはかかる時間に差はあっても読み取れることがほとんどである。もちろん書いてある以外のことはわからないので書いてある通りに読んでいるだけで、正確性は保証できない(当然であるが)。なので余計な邪推を入れない。こちらの希望とか感情的な反応も除外する。そして新しく情報が入れば即座に解釈を更新する。

そうやって読むうち、あまり人を否定や拒絶する必要を感じなくなっていったようだ。少なくともタイムラインにいるのを見て過剰反応するのはこちらの問題だし、よほど自分のコンディションが悪くなければそうそう気にもならない。酷い言い方を選ぶならどうでもいいのだ。別に寛容な訳ではない。フラッシュバックが起きるようなことに冷静でいられる訳がないし、負担がかかる関わり方をされるのはしんどい。そういうのを我慢して飲み込むことが減った。が、相手そのものをどうこう言うものでもないし、相手が変わりたければ助言じみたこともするが、そうでない人をこちらの思うようになんかしようがない。それは自分がそうされようがないことと同じことである。

上記2点が最大の変化だ。自分の表現力と読解力は自分では何か特別のレベルだとか才能とか言うものでもないと思っていたのだが(もっと凄い人にわりと接してきているので)、どうもそうでもないようだ。

他のこと。

自分はPCとかスマホとかのガジェット類、インターネットそのものなどからきしダメでまるでわからないしょうもない使い手だと思っていた。
また、自分で何かに対処したり自分から動く力は弱くて下手くそで苦手な方だとしか思っていなかった。

自分がとても困ったことになり、もう人に助けてもらうしかないと判断してそのマストドンで助けてくれと言ったら、数人が即応じてくれた。

が、自分の認識とその人達のほとんどの認識が酷くズレていた。

公的支援制度をフル活用して来た自分にとって、嫌でも自分から動かねば何一つ助けてもらえないなど最低限の常識で、働きかけたってだめなことも多い。それでもこちらは切実なので弁護士でもNPOでも自分で調べた法的根拠でも何でも使って食い下がるよりない。罵倒やあからさまな差別など日常茶飯事である。そして死にそうに煩雑で手間のかかる手続きがひっきりなしにある。毎月確定申告があるような感じだと言われたのでそういう感覚なのだろう。それをちょっとでもミスったりすると(ミスらなくても)何万もお預けを食らったりする。私も相当額を反故にされた。

単身居宅で病気が重症の自分では限界である。字など手書きで書ける日のほうが珍しい。そもそも公的支援制度は利用者のためにあるようなものとはとても言えないもので、こういうものに関係ない人が想像するものとはまるで似もつかない。

詳細は割愛して、「すぐに解決しないと来月にも命が危険にさらされる」→「即、調べまくって、支援機関に聞きまくって、本当に公的支援ではどうしようもないなら別の手段を考えて調べまくって……」これだけだ。私にはたったこれだけがもうできない。それが私ともう1人2人の認識。

ほとんどのメンバーがどういう認識かは不明だが、言われないで自分から行動するということがない。既に課題は整理されて関係ありそうな機関は1人がピックアップしていてくれたが、皆は彼を頼る形になり、能動的に動くこともわからないし、危機感は全然ないように見える。

こういう時に日本人が一番使いやすいであろうEvernoteを利用する提案をしたのは自分で、1人がさっさと課題を並べて関係各所の情報も調べ上げて、何故何も始まらないのか私には全く理解できなかった。

チャットは耐えられず抜けた。現在メンバーは増えたがあまり進んだりしている様子ではない。私は1か月ほどほとんど眠れず食べられないが日常では負担がどんどん増えていく。

数日前から個別に話を始めた。だんだんわかってきたのが、私の提供した情報量が膨大過ぎて把握しようがなく圧倒されてしまったらしいこと、まず私の状態があまりにも酷いので衝撃が大き過ぎて動こうにも私について何をどう、どこに話していいかわからないこと、感情の処理が追いつかないでいたこと、それらがだんだん落ち着いてもなお自分が何をできるのかどうすればいいかわからないことなど。

私は現在の自分の行動力がついてきたのは最近であることを以前の記録から理解した。私も1年くらいは悩んでいたではないか。現在は自分の力の使い方がわかってきたからギャンギャン言っていたが、何のことはない。私だって1年前に手伝い志願したら同じことになって怒られまくっていただろう。

検索がサクサクできるようになったのもマストドンに来てからだ。自分が書く言葉にかなり注意を払うようになったからか。
自分で何とかしようと動くことなどは、一般の人よりはできるというよりしなければならなかったので泣く泣くやって来た。

そして読解力と説明力が揃っている。

「検索講座とか開いたら? みんな検索して調べれば欲しい情報に行けるっていう成功体験がないんだと思う」
NIKITAは表面上だけ見ないで裏側というか本質を読み取る力が凄い。PCやネットに向いてる」

何だか、そういうことでもしていないと、やはり病む。
実働部隊としては自分には何もできないが、そしてそんな講座とかやってる場合なのかって思うが、このままじゃ今の病状悪化するよなあ、と思うのである。なるべく実になりそうなことがいい。してもらう一方はとてもつらい。結果がちゃんと見えること、手応えのあることをするのが、ストレスの強い今は自分に合っていそうではある。

自分に何と何ができて何はできないのかどうもわからない。
だって最近会話してて返事に窮する場合は体調のせいで答えてる場合じゃないとかそういうので、大抵のことは答えられてしまうのだ。(除く自分のこと)
そして講座とかどうやって開くかなあ……。教えるって少なくともリアルタイムでやり取りしないとダメなんだよね。相手のわからないことがこちらにわからないし、何しろその場でやれと言わないとあんまりやらないもんなんです、人間って。

なんか提案とかリクエストありますか各位。

つらつら考えごと

★いつもはワンテーマに絞って一応構成して書くのだが、体調などもあり、ただダラダラ書いた日記をそのまま転載しただけである。

 

言わなきゃわからないと言うが実際は言ったって大してわからないのだ
こちらは不毛な相談交渉を何年もやってるからもういい加減いくらか話せば聞く人かわかるようになって来た
と言うよりこちらの状態を汲む能力があるか、こちらの事情(主に支援制度についてだが病気障害を考慮する気があるかもだ)を考えられるか、知っているか、それを話して意味がある相手か、その辺りだ

その意味では「言わなくてもわかる」能力が要るのだしそれは存在する

「わかる」という言葉が曖昧で範囲が広くて程度の差をカバーし切れていないので齟齬が大きくなるのだが

把握力、思考力、想像力、まあどれも明確には表現できないな

重要なことは「わかるはずがないことを知っていること」「相手にも自分にも限界があり、何か強制することはできないこと」「自分の知っていることや力や判断力や認識は必ず間違いや過不足を含むこと」「自分のことも相手のことも認めることが原則で、それは『人はそれぞれがあまりにもかけ離れて違う生き物なのだ』という理由であることによる。その上で受け入れられない、相手も受け入れようとしないなどの場合、『わかる人だけわかればいい』として離れれば良い。縁があれば変化した自分が変化した相手と再会するかも知れない」もう少しあると思うがまずはこのくらいか

俺は「執着しなくていい」という選択肢を知らなかったから苦しんで来たが、そのためにこの程度のことはとりあえず「わかる」能力もついた
もちろん誤謬を含んでいることだろうがこれが今の時点の完成形であることに何も遠慮する気持ちは必要ない

完璧などあり得ない
皆その不可能なものを自分にも相手にも求めていることに気づかないといけないし、不可能なことだからこそ摺り合わせが必要なのだ
「現時点での一緒に作れる完成形」これがちょっとやそっとでできる訳がない
それには考えて行動してそれを自分にフィードバックして考えて、と循環させることだ
助けが要るなら誰かに頼る
全部自力でなんぞできん
また、最初からわかってる人はいないので答えを知ってる人に聞くことは何ら問題ない
どうせ一発でわかることの方が少ないのだから遠慮することもないが考えずに全部教えて、ではダメ
それだと一生何もわからないからだ
相手に迷惑だからとかいうことではない
むしろちゃんと教えようとする人なら相手の理解や思考力なんかが上がっていくことを喜んで手伝ってくれるし、そのためにあえてあまり多くを言わないことも多い
真摯であれば(いやなくても)必ずそういう人は出会える
だから人と関わることをやめるな

俺みたいにずっと考えてずっと気を抜くこともないでは病んでしまうからわざわざ必要ないのにここまですることはない
が、だからといって楽な選択肢ばかり選んでいたのではまず自分を損なうし、それが周囲とやらに迷惑にもなる
で、迷惑をかけたことばかりに執着してしまうとどんどん自分が動けなくなる
迷惑そのものは生きていれば絶対にかかる(死んだってかかる)のだからかけないようになんて目指しようがないし、かけたことを気に病むことも不要だ
何がまずかったか(これはすぐにはわからないことなのであまり気にすることはない)、どうするといいかわかればいいのだからその程度のことなのだ

「わからなかった以前の自分」に執着してきていつまでもこちらを理解しようともしない、変わったことを認めることができない相手にこちらから執着して付き合ってやる時間なんかないのだ

人は途中で死ぬ

人生なんかそんなに時間ないのだ
70何年生きてもその人生を全部自分の若い頃の冤罪を晴らすことに使い切った人もいれば生活保護法が違憲だと闘い続けて結局公判が終わる前に死んだ人もいる
長さなんか関係ない
結果が出るかどうかもわからない

だから自分のしたいことを全力でやればいいしそのためにこそ工夫して行動して行くべきだ
誰かがやってくれるの待ってたら何も起きない
どういう人生を送るかは自由だが俺は「ああ楽しかった」っつって死にたい
そのために人を巻き込んでいることは何らおかしいことじゃないはずだ
誰もが誰かの人生に巻き込まれているのだし、俺みたいな人達が大勢いることだっておかしいのだと知らせる機会にもなる
今日も守られずに死んでる人達がいるはずだ
俺はその1人になりたくない

これができるようになるのにどれほどの歳月を費やしたか
俺の側でどう配慮しないと協力してもらえないかだって何年生きてもなかなかわからなかった
配慮しないことも必要なことだという場面もある

まだ俺はヒヤヒヤしてる
ずっと何も伝わらずどうにもならなかったからね
死んでないのは本当に綱渡りだったんだ

"HELP ME" と叫んだこと

現在私は「マストドン」という最近日本にも導入されたSNSで知り会えた人達に「救助」を求めている。

 

以前から私の生活は公的支援制度に頼っており、Twitterなどでもあまり隠してはいない。だが具体的に自分がどれほどの状態の悪さなのか、また支援内容を本当に詳しく具体的に述べる機会は持たなかった。

 

去年(2016年)3月に初めていわゆる専門家でもなく、だが人からの相談を受けることを積極的に行っている人に連絡を取った。それまでは支援制度やNPOや弁護士やネット経由で知った元友達などに相談や依頼などをしていた。

 

が、先日突然支援体制が大きく変わった。詳細まで書いていられないが、私ができないことや困ることなどは一切無視して「無謀な自立」を勝手に目指されている。

これまで6年間そういった話し合いや外部の助けを求めるなどしてきたが、それでも私の実情とはかけ離れた支援にしかならず疲れきってうつ病を再発しかけていた矢先だった。今は全く食べたり眠ったりできない。

 

そこで、SNSにて全体に向けてはっきり「助けて欲しい」と書き込んだ。

 

私の状況は非常に複雑でわかりにくい。

まずいわゆる精神疾患や障害がいくつもあるが、病名とそこからの連想が実情と大きくかけ離れているものばかりだ。

 

特に発達障害は一般に理解も何もないのが現状で、私はその中でもかなり変わった特性のため、発達障害同士でも身内に当事者がいる人でもわかって来るのに5年くらいはかかるようである。この障害の厄介なところは「困ることのテーマ」だけ見ると特に一般と違うように思えないことが多いか、逆にあまりにかけ離れていて全く共有も想像もできないか、という辺りだと思う。端的に言えばできることとできないことが非常にアンバランスなのだが、この「できる」の意味は広いし、一見万人に共通するような悩みであっても程度があまりにも違う。そして、訓練やらすればできるようになるとは限らないし、できるために払う努力とかかる時間は一般に想定されるようなものではなく、膨大である。一方「得意なこと」は異常なほどできる場合もよくあり、私もこの落差があまりに激しい。「こんな凄いことがちゃんとできるのにこんな簡単なことができない、わからないはずがない」と思われてしまう。例えばこうして文章を書いているが、簡単に言うとこれ以外のことはほとんどできない。数が数えられない、何かを管理することができない、音声で言われたことはついていけない、何か予想外のことや知らないことに直面すると頭が真っ白になるので、何か考える時間も選択肢もなく質問をされたりや判断を迫られても答えようがない。これは発達障害の脳が理解などの情報処理にかなりの時間が必要なためであろう。だが日常生活の速度は合わせてはくれないのでこちらが全力で急いで慌てて反応するしかなく、わかっていないのだから間違えるし覚えていられない。まずこの時点で相手方には意味がわからないので、「そうは言っても頑張ればできるだろう、甘えだ」などとなる。克服努力をして何かできれば「やっぱりできるんじゃないか」となる。疲弊していって病気になったり悪化するパターンが実に多い。

 

うつ病もあるが、重度である。精神疾患の軽重は病名で判断されることが多いので実際に酷い時はどうなるか知らない人がほとんどだろう。また精神疾患が受ける差別焼偏見からあまり自分の病名も状態も出せないことも多い。そもそも具合がわるく弱っていればまともに説明などできるはずもない。が、根性論で済まされることがいまだに多い。通常、休めば良くなるし、その休みの期間は何かしようさせようとしては悪化するだけだ。うつ病は簡単に言えば脳の負荷が行き過ぎて疲れきった状態である。「心のエネルギー」という仮説があるが、ともあれそういったものが枯渇した状態と言っておく。脳が正常なコントロールを失うほど酷使されたから起きることなので、まともに考えたり動いたりできない。できているように見えるうちに休ませないと本格的に発症する。動けなくなると生命に関わるので脳が無理に動くための物質(ノルアドレナリン)を過剰に出すと考えられている。だからうつ病発症寸前は元気に見えるが行動がおかしい。

その状態は子どもの頃からで、私は無理しかしたことがない。が、見た目にわかる病気ではないので、休みが必要でそうしないと快方に向かいようがないことはほとんど知られておらず、怠け病のように思われる。

 

だが最大の障壁はPTSDだろう。私は実家で虐待されて育った。そして数年前に騙されて3日監禁され脅迫を受け続けたことと、強姦されそうになったことがある。

実家のような逃げ場のない所で長く虐待行為を受けている状態だと自分がおかしいことがよく自覚できなくなる(長くその環境にいなければならなかったために「適応」してしまうからだ)。「複雑性PTSD」という。自分を無価値としか思えなかったり、人とマトモな関係を築く方法がわからなかったり、当然、助けを求めることなどできないで抱え込む。自分が悪いと叩き込まれているからである。また、安心して親を慕うこと頼ることができなかったので、人と親密な関係を築いたり継続したりが非常に難しい。人を信じることを知らないし、信じた所で(親や周囲の大人に)助けてもらうなどの安定した関係を経験していないからで、子どもの頃は親に捨てられれば生きていけないことを逆手に取られたりネグレクトなどにあって、「この人は自分を見捨てるだろう。だが見捨てないかも知れない。見捨てられたら死んでしまうのではないか」という心理状態なのだと思われる。通常の育ち方をしていればそのような葛藤はあまりないので、付き合いづらくなって離れて行かれやすい。

そしてそういった経験や発達障害の特性から、端的に言って「人を見抜く力が弱い」。私が簡単に騙されたりしたのはこういう背景があろう。普通PTSDと言って想定されるのはこのような事件被害や災害にあったり衝撃的場面に居合わせてしまったことで起きるもので「単回性PTSD」と言う。

 

PTSDは本当に認知されていない。自然に治ることもないし、凄まじく弱るし、世界も人も何もかもが安全でなくなりずっと警戒したままである。生命の危機を覚えたり実際殺されそうになったり強姦されたりといったトラウマを想起させるきっかけはいくらでもあるので、ちょっとしたことで全力で自分を守ろうとして「キレる」。情緒不安定になって泣きだしたり、食事や睡眠に障害が出て、体力も落ちるし、社会生活が著しく困難になる。様々な発作的な症状も出る。適切な対処や治療をしなければ悪化していく。正常な状態になることは環境が整ったりするなど必要な条件がある。本人だけの努力では普通どうにもならない。

 

長々と書いたが、私は大まかにはこういったものを抱えている。

 

公的支援は手厚いと思う人が多いようだが、仕組みや各種申請や、とにかく把握することせねばならないことが凄まじく多く、聞いてもろくに説明はない。先日受給者でない人にほんの少しだけ説明したが(私も具合が悪すぎて言葉が出なかったり思い出せなかったりした)、「そんな複雑で大変なことでは元気な人でもとても無理だろう」と言う感想をもらった。ずっと情報を話しているが膨大過ぎて追いつかず、そろそろ倒れると思う(まあ、ずっと倒れた状態だが、本当にもうダメだという意味で)。6年対話して全部失敗に終わって療養もできずに来て、今は私の話を聞いてどうにかしようとする支援者はいない。私には体力も思考力も残っていない。とにかく私がわかる情報をどんどん友人達に伝えられるだけ伝えるしかない。質問されても答えるのが困難なくらいだ。もう私には何をどうすればいいか調べる力はない。困ることと情報はどんどん伝えているので調べたり聞いたりしてもらうしかない。それが現時点の「してほしいこと」だ。

 

私は障害等級1級を申請している。「24時間介護がなければ生きていけない状態」である。現在独居で居宅介護の状態でとりあえず死んではいないので、その診断書が通るかはかなり部の悪い賭けである(私よりもはるかに状態のいい人が通っていたりもするのだが)。また1級が取れても対応が変わるかといえば、少なくとも私の住む自治体では期待しない方がいいだろう。ただ様々の申請が通りやすくなる可能性はなくもない。私は支援者とずっと相談しては来たがほとんど何もわからない状態なので、精神科で介護の概念がこの自治体にあるとも思えない。他の県とか同じ都内23区でも支援は相当に違う。絶望しかけているが、これでダメかどうかなど考え込んでいる場合ではない。

 

支援機関は病気障害については全くわかっていないので、こちらから説明して助けになる支援を受けたいと言う話をするが、とにかく上記のように理解以前に信じてもらえない。そしてギリギリ取り付けていた支援をとっぱらわれた。

 

そもそもが私は自立とやらをしたいのである。そのためには病気をどうにかせねばならない。まず休まねば治るわけがない。

 

また、自立と言っても私の様々な困難を考慮するに、支援そのものは何らかの形で必要だ。が、もう公的支援は実に懲りた。今すぐにも辞退したくてしょうがないが、そうすれば私はやはり死ぬ。

今のことが何とかなったら詳細をできる形で公開したく思う。

今の全力で書く「近況報告」であり「生存報告」

SNSに投稿したものを全文転載。

どうやらうつ病を発症したかしかけているようだ。

 

※口調がなんだけど、簡単にいうと「解離性障害」という病気の一部、「解離性同一性障害」要するに多重人格の状態で、この人格が出ている状態でしか「耐えられない」のが昨年9月くらいから続いている。

 

***

 

ちょっとドタバタ。

主治医にFAXで指示をあおぐ。もし返事くれたとしてもあんまし期待できることはないけど。
文面が考えられずヘルパーさんに書いてもらう。恐らくうつ病発症相当の状態。無理がたたったな。無理なんてずっとして来たから気づくの遅れたっていうかわかんなかった。

マトモな状態じゃなかったのは自覚してたけど余計踏ん張っちゃうのが厄介だ。更に困ったことには、自分が正常だと言える時代を経験していないことだ。だからどうなればいいのかわからん。どうなりたいのか「忘れた」んじゃなく、「そんなのがない」。いつを思い出しても異常な状態だった。異常なのはわかるんだけど「感覚でこれが自分の正常な状態だと思える経験がどうも出て来ない」。

体験がないか少なくとも思い出すことが全くできないっていうのは、「この状態になりたい、戻りたい」っていう感じが得られんから困る。

あんまり思考力がない。言ってることも不正確だろう。酷く朦朧としてるのだけど、気が抜けない。

「自分で自分のことをどうにか出来る人なんていませんよ」

そう思うが、いつもうまくいかない。何がいけないのかわからなくなった。

「何がいけないのか、よりも、何が自分や人にとっていいのか、を考えるほうが難しくて大変だけど重要だ。人生はそんなに時間がないから。手をこまぬいているうちに自分も人もこの世からいなくなってしまいます」

更に
「肩の力を抜きませんか」
って言われた(で、猫がくつろぎまくってる動画のリンクもらった)。

やはり色んな人に話しかけてみないと生きていくのにわからんことだらけだ。同じことを言われても言い方ひとつで意味がわかったりもすれば、ただ傷ついて行くだけの場合もある。

理性には限界があるのだと突きつけられている。現実が理解できればそれで何でも解決なんか出来ると思うのは不遜に過ぎる。例え誰かは出来たとしても、他の誰かも出来るとは到底言えない。

が、現実が見えない状態じゃどうもならん。それは事実だと思う。ついこないだまで自分が全然現実に即した物の見方をできなかったから「あのままじゃダメだったな」とはわかる。今自分が何で人から攻撃されたように感じるかはわかってると思うし、それが他の多くの人には「感覚じゃわからんこと」なのも一応わかるつもりだ。

その上で「理性では解決できないことがある」と痛感する。頭でわかっても情緒は説得できない。ただ今は自分のためにしか何もできないし、それが恐らく正しい。人のことを考えてしまうと過剰に無理をするのがわかり切ってるからだ。

それは自分にも人にも全然良いことじゃない。自分がまずそれだけのゆとりがなきゃ人にはしがみつくしかできないもんだ。だから誰が何と言おうと自分を最優先して「回復」に力を注がないとな、まずは。その意味では「人に迷惑かける」ことを恐れるべきじゃない。そんなの回避しようとしたってもっと迷惑な結果にしかならんだろう。できないもんはできないのだ。当たり前だ、全部できる人が居たらおかしい。できないことを「外注」し合って生活やら世界は成り立っているのだろうというのは前からそう思ってはいた。が、何で自分はうまくいかないのかわからなかった。

今だってわかったとは言えないが、自分は弱くて1人で今までのことをどうにか出来るわけがない、人に頼るべきだ、ということまでは繰り返し叩き込むしかない。何回も同じことに気づき直すのだ。コレは仕方ない。理由が何であれ自分は人になかなか恵まれないで来たし、学習する機会がなかったから、人がわからない。わからないので信じる基準もわからない。自分1人で育った人なんかいないのだから自分だけ責めるのはあらゆる意味で間違いで、それこそ不遜な思考でもある。

人がわからない信じられないというのは世界もその対象だ。人間にとって世界は人でできてる。

信じる力なんか何十年もこの状態でいちゃ育たん。そんな歴史を歩んでないし、だからそんな余裕もない。安心して生きられん。自分を優先できないことは自分の人生も他人の人生も壊滅的なものにする。自発性が育たんって人をよくない形で巻き込むからだ。

駆け足だからまだほころびだらけだと思うし結局理詰めなんだけど、自分にはこの速度と方法しか今は取れない。ただ休もうっていうだけの話なんだけど、「良くなる、楽になることに強烈な罪悪感がある」のでこういう風にするしかない。

今は、な。

うつ病状態にはともかく思い切り休むのが必要で、環境的に難しいが、とにかく3か月くらいガッツリ休まないといかんかなと思う。一応期間設定しないと途中で無理するからね。

こうやって必死に宣言しないと(しても)自分にはそんな資格はなくて酷い仕打ちが待ってるって感じるんだ。どんなにそれが莫迦げた考えだと思っても。

【多重人格について】

ちゃんとした記事の体裁にとらわれていてしばらく書くことができなかった。

今色々と自分の中から噴き出している状態なので思いつくようにただ書いてみようと思う。



解離性同一性障害」とか呼ばれる。私はどうもそれに準ずる状態であるようだ。

私はネット上で色々と発言しているが、昔から「色んな人がそれぞれ書いたようだ」という感想を貰っていた。

今これを書いているのはメインの人格ではない。性別は男性である。
恐らく、はっきりした明らかな解離性同一性障害には届かないのではないかと思う。「キャラ」のレベルかも知れない。が、ずっと「俺」は存在した。

こうして表立って自分が出て来て発言する、というのはかなり勇気が要った。今もキツい。

主治医に相談したところ、

「30年くらい医者をやってますが、解離性同一性障害については『わからない』というのが今の答えです」

自分でも思い込みや演技か何かなんじゃないかとか色々悩んでいるが、主治医には

「やりたいようにやってみて下さい。答えは結局自分の中にしかないので」

といったことを言われた。
診断が欲しいわけではなかったので、それで十分だった。

Twitterなどで怒っている時や、特別醒めた言葉で話していたり、普通に見て男言葉だと思われそうな物言いをしている時は自分が出て話している。

――俺、ともう言わせてもらうが、俺がいつ「生まれた」かとなると、小学校時代だと推測できる。
長年、俺はメチャクチャに言葉遣いが荒くて酷くて喧嘩腰で攻撃的で、かなり注意を受けたが直せなかった。本来は女性だからあまりの言葉遣いが自分で恥ずかしくて、30代まで悩んでいたと思う。

何故俺が生まれたかというと、元の人格があまりに本音を言えず、人の顔色ばかりうかがって、怯えて暮らしていた(いる)からで、感情も抑圧しきって、何も自分を守るものも手段も持ち合わせていなかったからだろう。単純に、言葉遣いや攻撃性を表現するのに男性であるほうがやりやすかったのだと推測している。

最近になって何故俺があからさまに出てきたかだが、怒ることができるからだろうし、自分自身が苦痛に感じることがかなり平気でできるからだと思う。こういった「分析」も、元来の人格は怯えて思い出したり考えたりできないから、できない。

俺はそいつを脅しつけて押さえつけて痛めつけて、何もかも洗いざらい吐き出させて、その上で怒ったり考えたりしている。

これはもう、仕方のないことだと思う。「俺達」は優しく扱われた経験がほとんどないし、もう「自分を否定することをやめよう」としたってできないことだと悟り出してからは、俺は容赦することをやめた。そのほうが実は自分に本当に負担なことをどうも避けられているような気がする。自分には勝てない。


こんなことになった経緯を以下で言うが、今俺達が経験していることに耐えるためではないか、と仮定している。

最近、薬を飲むのをやめようと決意して主治医に言い、減薬しだしたら、ほとんど何も思い出せなかった過去の記憶が出てきた。そうしたら「フラッシュバック」というのが起きるようになった。主には恐怖を感じた記憶がよみがえる現象で、それが起きるがと様々な激しい症状が発作的に起きる。呼吸困難とか吐き気とか身体のこわばりとか、まあ、何でも起きうる。「パニック発作」「パニック障害」と言う。

その間一番問題になるのはやはり恐怖だろう。それはとりあえずは思考で何とかするしかないでいる。もう自分に加害した人間は自分を襲撃しに来る可能性が限りなくゼロに近いことをちゃんと現実的に考えて自分を納得させ、もし今何か非常事態が起きたらどうしたらいいか再確認する。後は自分が最初ほどの感情のたかぶり方かどうかと身体の状態がどの程度異常か落ち着いたかを、自分の場合ひっくるめて大体のパーセンテージで表して観察する。呼吸困難が一番強く長引くので、とりあえず呼吸を止めず、浅く速くなっているからその逆を意識して大きくゆっくりするようにする。それくらいしかできないのだ。

フラッシュバックが起きた時点を100とするとまあまあ30を切ったりまた上がったりするくらいで強引に動けば動けるようだ。そこらで動かないと膠着状態が続くだけだ。

とんでもなく苦しくて激しくて消耗して、「今」は全部吹き飛んで消えてしまう。が、周りが見たってよくわからない。

そうしている内に、自分のパニック発作が2種類あることに気づいた。過去の記憶に「襲われた」時とそれ以外だ。

俺は自分が苦しんでいなければならない、と頭に刻み込まれている。苦痛がなければ自分は生存を許可もされず保証もされないと。
幼少期の、倒錯的な親からの扱いがその理由であろうことは疑うほうが不自然だ。子どもだから親から捨てられては死ぬ。が、母親が特にそうだったが、俺が何をしてもしなくても、できてもできなくても、全部気に食わなかったらしく、いつも激しく怒られていたか嘲笑されていた記憶しかない。

いつの間にか、酷い目に遭うこと=「罰」を常に受けることが、生きるための絶対条件になった。

子ども(4〜5歳の記憶である)だから自分の何が良くないのかなんだかわからない。「自分が悪い子だから怒られる」しか結論は出せなかったのだろう。だから「罰」だと感じるのだ。

罰がなくてもあってもつらいし本当に恐ろしい。
全肯定も全否定もされなければ苦しいしされても苦しい。

それが「病気」の形を取っていれば、俺はいつまでもどこまでも苦しんでいられるから「治らない」。

フラッシュバック由来でないパニック発作がずっとずっと毎日長時間続いて収まらないのはそういう理由だろう。


俺は本音ばかり言うし、自分のことしか考えてないし、本当に下衆でろくな人間とは言えないが、もう1人の「良い子」の自分からは逃れようがないから、どうあれ自分を裏切りようもない。そいつの性根をどうしようだとか考えているわけでもない。俺自身もずっとこんな奴かも知れないし、変わるかも知れないし、消えるのかも知れないし、共存して行くのかも知れないし、その辺はまるで予見できない。

ただ、今日と同じ明日が来るなんて耐えられない。ほんの少しだけでもマシな明日が来るように足掻いている。何回自殺を図ってもどうしても死なないので、もう生きてるからしょうがない、と思っている。

どうやら現時点では他に方法もなければ、これをできるのは俺しかいないようだから、ただやっている。

やっと、怒ることができた。

かなり感情的な状態のまま書いた。

 

最近精神状態が凄まじく変化するのだけど、今週は毎日、1日に1時間から2時間しか眠れない。その他明らかなPTSD症状がだんだん酷くなっている。
眠れないのは本当に苦しいしすべてに悪影響を及ぼすから眠ろうとするが、私は休む事に物凄い罪悪感があるのだとわかった。

眠れないし眠ろうとすると恐怖心があるのはそのせいだ。睡眠そのものではないようだ。入院時はウトウトしたりできるのだから。

今週の状態と言えば激昂と恐怖とパニック発作と……、まあ、たかぶっていると言えばそうなのだが、トラウマの追体験にだんだん近づいているらしい。

急性期(病名は急性トラウマ障害。ASDとも)の状態だ。
何だってトリガーになり得るが、今週飛び切りのが来た。詩織さんの件だ。

私はとても怒りっぽくなっているが、こんな引き金もそうはない。

そしてスタンフォードの被害者の声明文の翻訳を読んだ。
https://www.buzzfeed.com/katiejmbaker/heres-the-powerful-letter-the-stanford-victim-read-to-her-ra?utm_term=.nywMMZMqmA#.avOnnBnkA1

原文(The original text)

翻訳(The translation)

http://watanabe-yo.sorairoan.com/?eid=25

私に起きたことではないが起きる所だった。
その3年前には3日間の監禁脅迫に遭った。

どちらも相手の目的は阻止できたが、それでも私は十分破壊された。そして今も全く立ち直ったりはしていない。破壊と言うより殺された気がする。

発狂したと言っても良い。どうしたって正常ではない。

私はほとんどの大事なはずのことも人も何もかもを失っている。育ち方のためもあって、酷い罪悪感に苛まれている。私は誰も信じることができない。自分を否定されても肯定されても恐ろしくなる。

それは私が悪いのか?

何故私がいつもいつも責め立てられねばならないのか。
2012年2月、私の切迫した状況を利用して来た男に周到に連れ去られ、3日間金目当ての脅迫に遭った。生きて帰れるとは思えなかった。
何とか帰還した私を待っていたのは叱責に始まり、狂言扱いされ、誰1人心配したりなどの対応はなかった。

役所の担当者は監禁の加害者とそう変わらない人間に交代した。私はその最悪期をずっと担当者からの脅迫を受け続け(証拠を取っておけたらそれなりの措置に出ているだろう)、通院さえ妨害され、家に来る支援者達からも冷遇された。私は明らかに突然おかしくなっていたはずだが――

――そんなことを気にかける人間は全くいなかった。今思えば何かあったのかと心配して保健師やらに連携を取り、することがあっただろう。
私が日本語をどうしても使えなくなって英語でSNSをしだした時期である。

警察に被害届を出した所で周囲がこれでは何もならなかっただろう。私は何より復讐が怖かったし、とにかく体調がどんどん悪化して本当に起き上がることができなくなった。
それを「依存」の1言で誰もが一蹴した。日本語世界では。

その状態の私に時間をかけて信用させるよう仕向けた男に強姦されそうになった。

私が世界を敵に回したのではない。世界が私を蹴り出したのだ。
私は金づるの道具でもなければ税金泥棒の厄介者でもない、劣情の玩具でもない。

何故こんな目に遭った人間をいたわるなりする人がいないのだ。

私を助けようとした人達がいることは知っているが、何故私がその状態で周囲に気など遣えるというのだ。
誰か1人でも柔らかく温かい態度で接してくれていたらこんなことになってなどいなかったろう。私に手を差し出した人達の99.9%が結局は私を勢い良く放り投げた。私が悪いのか?

何故私はこんな仕打ちばかり受けねばならなかった?
私は泣いても怒ってもよかったはずだ。支援機関なんか大嫌いだ。私はあの担当者達を忘れられない。弁護士に相談したら担当者のしている事は違法行為だと言われたのに弁護士も助けてくれなかった。誰も優しくなんかしてくれなかった。

忘れろなど簡単に言うな。忘れていたとも、薬漬けになることで。だからフラッシュバックも何も起きなかったのだから。手こずって当然だろう。「死ぬかも」じゃない「これは必ず死ぬ」という状態で責められ続けて唯一の理解者である主治医の所に行かせてもくれなかった。

私が悪いのか?

何故私はこういう経緯ばかり辿らねばならないのだ。本当に私が悪いと言うなら私が同じ目に遭わせてやるから、同じ状況下で最低5年半を過ごして貰おう。それから意見を聞かせて頂こうか。

私が世界中を恨んで何が悪いのだ。私が正気でなんかいられる訳がないだろう。

何故この扱いや対応に文句を言っちゃいけないのだ?猜疑心の塊になって当たり前な目にあって、それでも自力で生還した私ばかりが悪いように扱われるのが正当なのか?

何故私がここまでの罪悪感でこんな狂ったようにならねばならない?

味方しなかった世界が悪い。私じゃない。

怒って当たり前だ。

怒ることも泣くことも厳しく禁じられて育って、30代にもなって更に心を破壊されて、やっとネットを通じて遠い国の人達が「なんてことだ!大丈夫じゃないだろう、逃げ出せ!なんて所に住んでいるんだ!」……等と言ってくれたのだ。私より先に怒ってくれた。それが当然だった。


それが当然なのだ。

「I'm sorry」のない社会

役所の担当者が来訪した。
前段として、支給されるはずの経費がずっと放置されており、何度もこちらから連絡しても反応がなかったので、今月は本当にきついことになっていた。

担当者と顔を合わせてみると、仕事ができないとか手抜きとかではなくて私の「出来無さ」「障害病気持ちの受給者の困窮度合い」などがわかっていなかっただけで、私が結構訪問看護師から言ってもらったり自分が言えた時に思い切りFAXしてギャンギャン言ったので気づいたものらしい。丁寧な聴き取りであったし誠実味のある対応をする気があることはわかった。実行力があるかは知らんが。

ただ、だ。私ほどの困窮度合いであり、かつ私ほどの文章力や行動力を持つ、という受給者は普通いないと思う。だから私の体調の重篤さ体力のなさ障害の酷さなどは伝わってはいないだろう。そもそもこんな状態になってるのにこれだけ助けてもらってなくて生きている人が珍しいはずだ。私とて今「減薬の副作用」的に怒りやすくなっているから強引に行動できたのだし、誰も助けてくれないのを痛感していたから早めに、本当の手遅れにならぬ内に動いたまでだ。

つまり本当にこれだけの助けが必要不可欠の人は放置されるのがこの社会の「スジ」なのだ。私の周りで不本意に世を去った人、しようとした人がどれ位いるか。もう何年も世間と隔たっているから明確な数も体感的な「率」も不明だが、6年前程の時点で私の「患者仲間」「受給者仲間」(顔見知り程度含む)だった人の半分近くは既に世にいないものだと感じていた。人づてに訃報は入っていたので。

こちら側から見ると多くの国民が気にしていることはほとんどが茶番にすら見える。以前いくつかのメディアで言ったことがあるのだが、社会保障制度の利用者や様々の犠牲者を鞭打つ精神は異常なものだ。その時例えに使った通り、今なら戦争などになって、自分が動けなくなっても国は助けてはくれないし、それを助長するということは何があっても自分は死んでも何されてもいいです文句言いませんと主張しているのだ。

平時(平時なんかではないのだが)これでどうなるか想像しないことが恐ろしいとわからないのが恐ろしい。

私は複数の事件被害者だが今の状況を作ったのは数々の「セカンドレイプ」だった(当時の筆頭が役所だったので今も役所や役人が恐ろしい)。私が隙を作っただの行動しなかったのと散々責められたり、すべてが信用できない状態になって過剰反応したり攻撃性を現していたから人は離れるし色々悪し様にも言われたが(今もだ)、何故そうなったかに意識が行く人は非常に少ない。また、話してもわからない。私がどれほど自分を責めたかも絶望したかも「同情を引きたいからだ」と一蹴される。
私が欲しいのはただ、一般的な助けだった。そして「I'm sorry」― 詫びではない、この訳しにくい言葉が外国の友人達からはあっても日本人がその意を表現したことは記憶にない(あっても覚えていない)。説教は山程された。おかげで更に追い詰められた。

私が怒っている対象はとても多い訳だが、怒れるまでの過程を誰かが経験することを基本的には望まない。初めからこんなこと、起きるべきではないのだ。

それでも起きるものは起きる。「最初」に私に起きたこと(いくつもあるのだが)が私には防げなかった。誰が防げるというのだ。私は抵抗しなかったのではない。できうる対処もした。だが、それらができなかったとしたって私達が責められる理由はない。次はあなたかも知れないのだ。

自分を含む何もかもを恨むしかできなかった頃、私はみんな同じ目に遭ってしまえばいいとも思っていた。今もその気持ちが消えたとは到底いえないが、なったらなったの地獄絵図が容易に想像できるのだ。

その地獄はそこら中にある。ただ露呈していないだけだ。ただみんな知らないだけだ。きっかけがあっても目を背ける。自分はいつも無関係だと思い込んでいる。ずっと無関係でいられて高みの見物を決め込んでいられるものだと思い込んでいる。だから無神経さを維持できる。

それが異常だと私は思う。せめて善意を持とうとも思わないなら、それが自分に還ってくるという話なのだが。

グリーフケア

グリーフ【grief】悲しみ、悲嘆、心痛
ケア【care】手当て、治療

自分のこれまでの人生があまりにメチャクチャだったので理由を探って、ひとまず行き着いたのが幼稚園時代の親との関係だった。

長らく、理屈ではそういうことだろうと思っていても実感がついて来なかった。記憶がほとんどなかったことと、あらゆる感覚が麻痺していたというか鈍麻した状態だったためによくわからなかったのだ。

18歳くらいまでは病気という形で無理に適応し、通院を始めてからは病気と薬の両方で無理矢理生き延びたから、記憶障害や感覚全体の過剰な抑制が常に続いていた。ここ数年で2回危険な目にあったがカウンセリングも何も助けになるものがなかったので薬で更に抑え込むことになった。

***

今は薬を減らし出して、一気に神経系への抑えが取れて感覚やなんか全体が過剰に働いている状態だから、抑えていた記憶にアクセスできるようになり、それに対して心身が「ちゃんと」反応するようになったが、とにかく過剰で過敏だ。いちいち症状に向き合い過ぎてしまうと余計神経が興奮して悪化するから、「正面切って闘って」はいけないのだとは気づいた。「何とかしようと抵抗する」ことで危機感が上がってしまうのだろう。

過呼吸とか動悸とかいうのは危険から逃げるか戦うかするために酸素を取り込んで血流を上げるためのシステムが働いている状態だから「苦しい、何とかせねば」と慌てたら「え、もっと必要?」と神経系が「誤作動して更に興奮する」感じだと思われる。こういうのが「パニック」と呼ばれるらしい。
症状は「起きうることは何でも」のようだ。痛いとか苦しいとか気持ち悪いとか感じるのは神経のかたまりである脳の働きだから、何だって起きうる。また神経系が過剰に働くから刺激に対して知覚が過敏だ。目が凄く痛くなる(見え過ぎる感じ)、耳鳴りがする、幻覚も見えたり聞いたりすることがあるらしい(私は幻覚は今の所未経験)など。感情も過敏になるが症状だらけでストレスフルなのと過興奮性の両方の理由による感じだ。

薬や他の不自然なこと以外の方法でがっちり対応できるようになれば脳は過剰に活動しなくて良いので安定して行き(=適応が新しく形成される)、不要なことは自然におさまるということのようだ。

***

幼児期の「とにかく怒られる、何をしてもしなくても非難される、絶対に優しくもされず褒められもしない、恐ろしいだけ」でしかなかった親との関係から私は小学校前に色々な症状を呈していて、そこから何も変わっていないように感じた。4、5歳で人間としての成長が止まってしまったのではないかと強く思えた。

心の中に見える、園児服を着たガリガリに細い子どもに声をかけてみるということをしてみた。

その子は私自身なので、彼女が抵抗感や罪悪感を持つと思い切り症状が出た。その子は終始おびえていてひと言も口を利かず、近くに寄っても来なかった。私が感じる激しい息苦しさやあちこちの痛みが返ってくる答えだった。彼女が背負っている重荷がやっと感じられた。幼児が負えるものでは到底ない。少なくともその4歳児には彼女の親が乗っかっていた。それだけには見えなかったがよくわからなかった。

とても悲しい。私が何と言ってもすべて彼女が苦しむ言葉にしかならない。全部自分が悪い子だからこうなるのだ、自分は人間じゃなくてモノだと思っていた。それは違うと言えば酷い罪悪感で苦しくなる。親を否定することになるからそれは子どもには苦痛だし恐怖だ。あんまり苦しいから人間であることを自分でも拒否したのだ。

これからは邪険にしないで大事にすると、言おうとしただけで息ができなくなったが、そう言った。今書いていても苦しいし痛いし悲しいが、こういう対話の仕方をしなければ、全然、わからなかった。自分がどう感じていてどう考えてきたのか、ただ自分の記憶を探っても出て来なかった。

その子が無事に重荷を降ろして成長するよう、私がまず、優しくしてやろうと思う(人に優しくするというのもわからないけど、とにかく)。自分を大事にすると言ってもどうせ感覚的につかめないが、血色の悪い、食の細い、寝不足で、いつも独りの、いたいけなちっちゃな女の子を守ろうとするなら、それはそんなに感じるのが難しいことではない。可哀想に、とも思える。だって、可哀想じゃないか。

彼女を見捨てる理由は、私にはない。見返りだっているわけがない。そうしたいからそうするのだ。

薬とPTSD

減薬5週目、32日目。

当初は離脱症状と呼ばれる、「薬の量が減ったりなくなったりして起きる症状」が酷くてほとんど何もできなかったが、今月13日か14日からそちらはいくらか軽くなり出した。が、PTSDの症状が出るようになり、そちらがかなり酷くなって来た。ここ3日間は毎日フラッシュバックを起こしては激しい症状に見舞われる。

薬で神経系の活動を抑えていたので薬が入ってくる量が減れば、神経系(簡単にいうと神経全体)の「たが」が外れた状態になる。過剰に活動するようになるのだ。何にも過敏に反応する。過剰な興奮状態になる。

症状を挙げるのは難しい。何でも起きうるからだ。私が経験しているものを書くと、

頭が興奮したままなので休むことができない。じっとしてもいられないが身体を動かすこともほとんどできない(身体に力が入らないのと様々の症状が激しくて苦しいので動くどころではないからだ)、眠れない、思考力や記憶力の低下(認知機能の低下。物忘れ、記憶できない、理解できないなど)、怒りやすくなりイライラし続ける、ストレスや負担に極端に弱くなる。最近の私はずっと機嫌が悪い。些細なことで感情的にもなりやすい(疲れるとそうなる)。起き上がっていられない。寝ているのもしんどい。

考えることが酷く負担で、言葉を考えたり、書いたりするのが脳には一番負担らしく、あまりできない。字を書くのはしんどい。手に力が入らないことが増えたので手書きがよくできないし、スマホを正確にタップするのが難しいし、酷くなるとスマホを支えていられない。画面が眩しい。他、自分にとってストレスや負担になることをしたり、そういった刺激を受けたりすると、頭痛、腹痛、強烈な眠気(だが絶対眠れない)、耳鳴り、眼痛、過呼吸(呼吸が浅く速くなるが止まってできなくもなる。酷く苦しくて何もできなくなる)、動悸、酷い汗(体温調節が狂うようだ。断薬経験者に聞いたがやはり発汗は酷くなったそうである)、各種の神経痛(三叉神経痛=顔面の神経痛、肋間神経痛など)、胃痛、吐き気、背中痛。また常時お腹を壊している。元々弱い箇所の症状が強化して簡単に出るか出っぱなしになりやすい。

なお、負担がかかって出る症状についてはおおむね負担が強いほどあとの症状まで出る。
このリストは大体減薬3週目に作成したものなので、少し今とは様相が違うが、こんな風に「身体に出る」ものが多い。もちろんこんなものが続いているから酷く疲れる。疲れるからまた悪化する。

他に起きうるものが抑うつ状態とか幻覚などだが、キリがない。幻覚も過剰に神経が活動するから起きるだけだし、抑うつ状態も攻撃的なのもこういった経験がストレスだからでもありまた過敏で過剰に反応するからだ。薬で思い出さなかった昔の記憶が唐突に蘇る。それも大抵不快な形で。こういうのがフラッシュバックだというのであれば、私にも起き始めた。大変簡単なきっかけで昔の酷い記憶が「襲って来る」らしく、私の場合はあまり詳細に思い出す前に吐き気や動悸、酷い過呼吸が起きるが、めまいも神経痛も起きる。

だから「離脱症状」という名称は恐らく便宜上である。

こういった症状、神経の過剰活動は、環境や負担、ストレスに対して新しく適応ができあがれば消えていくらしい。

私には離脱症状が起きるとは思わなかったと主治医が言った。つまり、見立てでは薬は大して減らしていないのだ(私も減薬を始めた日は「これだけ?」と拍子抜けした)。
このように個人差が大きいため、断薬までの期間は想定できない。

私の減らした薬の1つは「力価」というのが大きい。少しであってもたくさん飲んでいるのと同じだという話だから、いきなり半量になったのは「減らし過ぎ」だったかも知れない。また、私はかなり長期にわたって精神科薬を飲んでいるし、少ないとは言えない。そうなった経緯は少しおいておき、薬で何でも対処する習慣が強くついている。依存というわけだが、これを自覚することはかなり難しい。自分で気づくことはできないだろう。だから薬なしではストレスに上手く対処することがまだできない。

上手く、というより、「今しているこれでいいのだろうか?」とか、そんな感じだ。毎日切り抜けるのが精一杯で、「こんなことやってて先へ進むのか……?」と思うのが正直な所だ。

私はカウンセリングを受けているわけでもないし、主治医の予約は減薬後1回しか取れなかったうえ、その日は支援者が同行してそちらへの説明に時間を取られ、減薬などに関わる話はほとんどできなかった。そして次の予約は来月だ。本当は毎週通院が先生からの指示だし私の希望だが、今回は連休や学会があったりしたこともあるし、交通費が確保できないのが一番の理由だ。主治医ほど私の理解をしている人はおらず、カウンセリング能力もある人なのだが。

PTSDと増薬の話。

この数年の間に私は2回、他人から故意の悪意(立件できれば刑事事件である)を受け、PTSDになったが、その当時に支援機関の担当者から更にとんでもない目に遭わされた。私に特別に必要不可欠な支援のほとんどを「怒られて」打ち切られたり、入院、通院をさせてくれなかったり、同意していないのに恐喝のような電話の後勝手にお金を天引きされたりなどだ。
弁護士相談はしたが、はっきり違法だというのに私の体調不良を理由に案件を受けてくれなかった。寝込むような状態でなければ当時の私であっても動いたが、そこで心が折れてしまった。今もその支援機関の建物など思い出すだけで吐き気や過呼吸や動悸などが起きるから、担当者が代わってもどうしても近寄ることもできないし、とにかく怖くてたまらない。本当は関わるのもやめたいが今「自立」できる状態ではない。

――全く起き上がることもできない状態になって満足に口もきけなくなっても、PTSDなど人が理解できるものではないから各支援機関の対応は本当に酷かった。そもそもいまだに私が何かされたなど信じてもらっていない。「怠けたい一心で作り話をしているただの依存」というわけだ。

私がどう動いても助けを求めても、誰も助けてはくれなかった。カウンセリングはお金がないし私は寝たきりで通うことができないしで受けようもない。せいぜい、主治医から薬を配達で送ってもらうことしか私にも主治医にもできなかった。また主治医からは自作のカレンダーが送られて来たりもした。そんなことをしてくれる人は他にいない。

薬を使う以外の選択肢は断たれたのだ。いくら何と言ったって誰も応じてくれない、主治医だって私が行かなければ私からの連絡で状態を推測して薬を出すしかできない。
通院がある程度の頻度で再開してからもPTSDの治療は目処が立たなかった。元々かかっていたカウンセラーは異動させられてしまった。主治医は一般的なカウンセリング能力はあっても物理的に時間が取れないし、そちらの専門でもない。
また、他の医者を探すことは支援の制約上できなかったし、今更この状態の私を理解する医者を見つけて関係を築けるとはとても思えない。カウンセリングができる医者、というのは恐らく自費だろうし、そもそもそういうことをする医者がいることを私は知らなかった。
支援制度でかかれる精神科は一箇所に定めなければならない。私は入院先が主治医の所ではないので、事実上セカンドオピニオンを受けていることになる。これは良くは聞けずにいるが特別の措置のようだ。藪を突突いて蛇を出す真似はしたくないのが本音である。入院先のドクターはカウンセリングしてくれるわけではない。薬嫌いのドクターだが、状況的に仕方ないと嫌々処方してもらっている。

ともあれ、薬が増えたのはこういう過程を経てのことだ。
だからどうだとも言えない。依存は依存だ。ただただ私は死ななかっただけで、この孤立状態で(というよりほとんど敵対者ばかりの状態だ)生存したのは私の力と言えるかどうか。私自身はこの間に3回自殺を試みたが未遂に終わっている。

その私が薬はやめると言ったのだが、実際に減薬を始めるまでは記憶はあまりなく、思い出すことがあってもあまり何か感じることもなかった。こんな風になるとは思っていなかった。

だからといって薬を戻したいとは思っていない。あのまま、薬しか「何かを乗り切る」手段がないと思い込み続けていたら、いくら薬があったって足りないだろう。何か感じるのを妨害するものなのだから(はっきりPTSDがある、死ぬような目にあった記憶があるという現実から一時的に逃げるのに使ったのだから)、私は現実の何もちゃんと感じることができないままだ。それでは現実に適応できる能力が育つはずはない。正しく感じないものにどうやって適応するのだ。それは、減薬を始めてからのほんの僅かの成功体験でわかったことだ。

すごくゆっくりやるしかないのだろうか。色々同時進行なので、いっぺんに全部解決する方法なんかないだろうし、これでもこれまでからするとものすごくたくさんのことを切り捨てているのだが。

そして始めなければならなくなったことが「自分を育て直す」ことだ。これはまた別の記事にするが、私は現実として「育っていない」のだ。それはそれでまた別のPTSDなのでやはり症状が出るのだけれど、どうもそれもしないとおさまりがつかないように感じるし、それが全体のカギなのかも知れない。

私は自分の感覚に自信がない。助言もらったこともどうやって組み立てればいいかわからないし、その前にあまり思い出せなくなっている。数時間眠ったら今日の記憶は容易には思い出せなくなる。これでいいのかわからない。

幼稚園時代に形成された世界と言葉

私が何故言葉にこだわって書くことをしつこく続けているかに行き当たりました。いくらか記憶が出て来たので書いておきます。幼児期の話になります。

どのくらいこだわっているかですが……。
 
今の私の文章は薬の離脱症状に見舞われながら書いているのであまり推敲もできないし、決してうまくはないですね。普通ならこの状態でブログなんか書くものではないのかも知れません。他にすることもあるし、余力があって書いているのではありません。今のところ、かなりやり過ぎの状態だという自覚はあります。

それでも私は習慣化するほど書いています。
書く練習というか、まともな文章力が欲しいのです。書くことをもっと自在にしたい。言葉が扱えるようになるので、現実の人と話すことに凄く影響するんです。字数を削るとか重複を避けるとか表現を変えるとか1文の長さとか、ひとつの文章が一貫性あるかとか、いくつかのポイントを意識し始めていたのですが、これは話すことを整理できるようになりますね。もちろん、文字でのやり取りも上達します。(当たり前ですが)
 
私は人からはあまり会話に不自由しているとは思われません。むしろ相手が言い返せなくなるまできっちり話すと思われてしまうことが多いです。わかりやすいとか言われることも多々あります。アスペルガーとは思えないとか、そんな障害があるように見えないから大丈夫(?)等々。
 
いずれも、元は望まない訓練の結果です。
 
私は発達障害者(アスペルガー、現在の呼び方は自閉症スペクトラム)で、話し言葉にはかなり苦労しました。幼稚園に入っても私から何かを言うことができませんでした。言葉が出て来ないのです。
親によれば、私に字を教えたことはなく、私が3歳から勝手に絵本で字を覚え、書き物をするようになったそうです。私は幼稚園で色々と詰め込み型の勉強をさせられた世代なのですが、読み書きは入園前にはできていたようです。幼児期に私が書いた物は実家にそこそこ残っていました。
 
でも、私はしゃべれませんでした。聞いたことは親から見たところ理解できていたそうですが、会話というコミュニケーションはないままでした。
 
何歳で話すことができるようになったかはっきりとはわかりませんが、幼稚園の時にちゃんとしゃべっていなかったことは記憶にあります。ろくな意思の疎通ができずに私がギブアップしてしまい、泣いてばかりで、先生をかなり困らせたし、周りの園児達にはいつも責めるような口調で物を言われるように感じていました。そして私は何か言われても返事(回答)ができませんでした。何が言いたいことなのか自分でわからないし、表現が出て来ませんでした。とにかくいつもいつも泣き出してしまう。頭で状況をシミュレーションして、何かしら訴えたいのですが、本当に簡単な言葉しかその場では出ません。単語で話しているのに近かったのではないかと思います。
 
どうすればその時にしている作業ができるのかわからなくなることがよく発生したのですが、それを訴えるための言葉を発するまでかなり時間がかかりました。どう言えばいいかわからないので、説明するために状況を考えているうちに「できない」という事実しか頭になくなってしまうのです。それで絶望的な気持ちになって「できない」と言いながら泣き出す。それ以上はいくら考えてもただもう無理だとしか思えないので、何か聞かれても説明しようがありません。
ただ、何故そうなるかは、このままでは飛躍気味に思えなくもありません。
 
例をあげると、着替え、工作、楽器の演奏、カトリックの幼稚園なので教会で祈る時間があったのですが、合掌している手が冷たくて辛いことを言いたい(冷え性のようでした)、体操(体育)はできないことのかたまりでしたので(身体が酷く不器用だったのです。発達障害で言うと動作性や「目と手の供応動作」が凄く低かった)その時間自体が死ぬほど苦手で、周りの園児が楽しそうなのが理解できませんでした。体育の先生は今考えるとかなり優しいお兄さんだったと思いますが、当時は大声でできないことを迫る怖い大人でしかありませんでした。階段を降りることもおぼつかないほど身体が不器用でしたから(後に足が少し悪いと発覚するのですが、それは高校生の時でした)、歩くのも怖いくらいです。ですから外遊びはもってのほかです。ですが、それらをどう訴えたら良かったか。手順がわからないというのもありますね。歩く動作にさえ混乱するのですから、本当にできることがなかった。
 
着替えで思い出しました。
 
幼稚園は制服で通いますが、着替えにもたつくので、家では怒られながら着替えさせてもらっていました。私が自分でしていると時間に間に合いません。「お姉ちゃんなのに恥ずかしい!」と毎日怒られました。他の日常的なこともたくさんできなかった。親は辛抱強く待つたちではなかったので、私はいつも怯えていました。パニックになってできないと叫んで泣くしかできなかった。また怒られる。そうして悪循環ができていきました。

「怒られる」恐怖があるから、コミュニケーションや挑戦をする前にパニックになってしまい、そこから思考も何もロックされた状態になるのでどう言えばいいかどうすればいいかはわからなくなり、絶望でいっぱいになって泣くだけ。外の世界でも私は怒られるようにしか行動できなかった訳です。周りには何故私がしないのか、しゃべらないのかわかりません。それで泣いているだけなので、甘ったれているとかいう解釈になっていくようで、だからいつもいつも責められ怒られたのです。幼稚園は大嫌いでした。毎朝門柱にしがみついて泣いて、入るまいとしていました。嫌いというより、怖かった。

コミュニケーションがまともにできませんから私は独りでばかりいました。幼児期に誰かと遊んだ記憶はありますが、からかいや明らかないじめ行為を受けたり、非難されることになったことばかり思い出します。独りで本を読んだり粘土細工やお絵描きに没頭していました。誰かがその繊細な大事な世界を壊すように入って来て乱暴な行動とマシンガンみたいな言葉を浴びせてくることに、私は耐えられなかった。
人とは接触したかったのですが、持っている世界の認識が全然違ったので、できなかったのです。共通の言語がない。誰ともありませんでした。もちろん家族も仲間ではなかった。父にはよく遊んでもらっていたけれど、父が私達子どもに要求した理解度の水準は高過ぎました。私は6歳の時には父が作った小学校中学年程度の問題を解いていたし、それが可能であれば、他のことのレベルもそのくらいだと思ったのでしょうか。私が父に合わせていた感じは覚えています。子どもに甘いようで、いついきなり癇癪を起こして怒られるかがまるで予見できない人だったからです。
 
私は両親に見放されまいとして必死に彼らの機嫌を取り、彼らが怒るのを防ごうとしました。子どもですから、養育者から捨てられたら生きていけません。私は本当にそれが恐ろしかった。
でも、怒りと嘲笑とが返ってくることがほとんどでした。あるいは、反応もされない。無表情に私を見て、何の返事もなく立ち去る母をよく覚えています。またはため息が返ってくる。これは本当に多くて、機嫌を損ねたらしいのははっきり示されるけれど何も言ってくれない訳で、物凄く恐ろしい行為でした。
ですが、両親とも、自分が話したいことはいくらでもいつまでも話しまくりました。年齢的に私が理解できる内容や話し方ではなく、大人と話す話し方でした。私はそれを指摘したことがあるそうですが、両親とも私に合わせて直すことはありませんでした。
相互のコミュニケーションではなかったのです。私は聞かされるだけでなく、機嫌を損ねないよう、興味あるフリを続けていました。実際は何を言われているかわかりませんでした。話題はわかるけれど、言葉遣いも内容も高度過ぎました。それでも必死についていった。楽しくはありませんでしたが、親子とは、人間とはそういうものだと思っていました。よくわからなくてもニコニコして聞く、頷く、私の感情や状況は関係ありません。早くやめて欲しくてもどれだけ苦痛でも(わからないことを延々聞かされて楽しそうなフリをしていれば苦痛です)、私はどうすれば機嫌を損ねず、喜んでくれるかに腐心していました。怖かったですから。
 
私の発語(言葉を言うようになること)がとても遅かったのも、そうなった一因かも知れません。双方向のコミュニケーションが成立することは難しかったでしょう。が、私はどんどんただの接待ロボットのようになっていきました。それは母が私をさして言ったことからそう思うようになったようです。「あんたなんか機械と同じじゃないの。食べて寝てりゃいいんだから」。そういった内容だったと思いますが、確かなぜ機械と同じかの理由はもっと列挙されました。赤ん坊なんか泣いてればおっぱいがもらえて、それで泣きやんで寝るんだから、機械みたいなもんよ、とか、いつものように機関銃のように言われる一方で、私はニコニコ頷いて聞く「機械」でした。口を挟むことができる言語能力はまだありませんでした。5歳前後ですから、親のいうことは絶対です。私に語彙もありません。何が彼らを怒らせたり、興をそぐのかもわかりません。
 
私が自発的なことを望むと状況が悪化することを学び取り、私は両親が気に入る話題や行動だけを必死で汲み取ってするようになりました。話題は聞かされまくっていたからストックしていて、あとは私が何とか聞いてもらえるような話し方をすること。ですから、私は子どもらしいであろう言葉遣いを知らないで育ちました。私の都合は彼らの意に介されるものでは全くありませんから私が合わせるしかありません。
それでも、いくら合わせても、怒られバカにされ、病気になっても放置されて死にかけ、幼稚園時代にはあまり眠れなくなっていました。キリスト教教育で死後の世界の話をされたのだと思いますが、小学校に上がる頃には死という概念がわかっていて、死にたくてしょうがなくなっていました。

発達障害由来の私の「できなさ」も彼らの理解を超えていたのでしょう。だけど、あまりに怒られ過ぎだし、3歳児に「自分達は人間だから間違うこともある」と言ってのけ、私のことはしじゅう嘲っていることはやはり異常だと思います。その人達の機嫌を損ねず、言われていない要望を汲み取り、先に叶えてやることは、私がおかしくなるのに十分な材料だったはずです。世界がおかしいまま、言語能力だけは高くなりました。彼らとばかり「コミュニケーション」し続けたからだと思います。外の世界の人とは、これでは話が合うはずありません。
 
私が基本的に独りで遊んだのは、こういう現実世界から逃げて独りでいる時間を設けなければもたなかったからかなと思います。だから誰かに侵入しないで欲しかった。だけど、自分の孤独は痛感していました。
 
生きていることが、苦しかった。
だから私は生きていない「モノ」だと思うようになって行きました。
他の人がそういう感覚ではないなんて想像できませんでした。
大人になるまで生きていると思わなかった。なんとなくでしたが、周りの大きい人達のようになる自分なんて想像できませんでした。
 
それでも本当に死にたかったのかわかりません。大人になるまで生きているわけがないと感じていました。それは救いでもあるようで、絶望でもありました。
 
私の表面的な会話スキルはこうして獲得が始まったのです。
 
何も私の意思も希望もありませんでした。
両親は私でおままごとがしたかったのでしょう。
 
これが大体6歳くらいまでの、私の世界と言葉の感覚が作られた経緯です。その後、これが私の世界観で人生観で人間観になった状態で何十年も過ごします。