NIKITAのリハビリ的日記

心のお片づけをする発達障害系な人

【多重人格について】

ちゃんとした記事の体裁にとらわれていてしばらく書くことができなかった。

今色々と自分の中から噴き出している状態なので思いつくようにただ書いてみようと思う。



解離性同一性障害」とか呼ばれる。私はどうもそれに準ずる状態であるようだ。

私はネット上で色々と発言しているが、昔から「色んな人がそれぞれ書いたようだ」という感想を貰っていた。

今これを書いているのはメインの人格ではない。性別は男性である。
恐らく、はっきりした明らかな解離性同一性障害には届かないのではないかと思う。「キャラ」のレベルかも知れない。が、ずっと「俺」は存在した。

こうして表立って自分が出て来て発言する、というのはかなり勇気が要った。今もキツい。

主治医に相談したところ、

「30年くらい医者をやってますが、解離性同一性障害については『わからない』というのが今の答えです」

自分でも思い込みや演技か何かなんじゃないかとか色々悩んでいるが、主治医には

「やりたいようにやってみて下さい。答えは結局自分の中にしかないので」

といったことを言われた。
診断が欲しいわけではなかったので、それで十分だった。

Twitterなどで怒っている時や、特別醒めた言葉で話していたり、普通に見て男言葉だと思われそうな物言いをしている時は自分が出て話している。

――俺、ともう言わせてもらうが、俺がいつ「生まれた」かとなると、小学校時代だと推測できる。
長年、俺はメチャクチャに言葉遣いが荒くて酷くて喧嘩腰で攻撃的で、かなり注意を受けたが直せなかった。本来は女性だからあまりの言葉遣いが自分で恥ずかしくて、30代まで悩んでいたと思う。

何故俺が生まれたかというと、元の人格があまりに本音を言えず、人の顔色ばかりうかがって、怯えて暮らしていた(いる)からで、感情も抑圧しきって、何も自分を守るものも手段も持ち合わせていなかったからだろう。単純に、言葉遣いや攻撃性を表現するのに男性であるほうがやりやすかったのだと推測している。

最近になって何故俺があからさまに出てきたかだが、怒ることができるからだろうし、自分自身が苦痛に感じることがかなり平気でできるからだと思う。こういった「分析」も、元来の人格は怯えて思い出したり考えたりできないから、できない。

俺はそいつを脅しつけて押さえつけて痛めつけて、何もかも洗いざらい吐き出させて、その上で怒ったり考えたりしている。

これはもう、仕方のないことだと思う。「俺達」は優しく扱われた経験がほとんどないし、もう「自分を否定することをやめよう」としたってできないことだと悟り出してからは、俺は容赦することをやめた。そのほうが実は自分に本当に負担なことをどうも避けられているような気がする。自分には勝てない。


こんなことになった経緯を以下で言うが、今俺達が経験していることに耐えるためではないか、と仮定している。

最近、薬を飲むのをやめようと決意して主治医に言い、減薬しだしたら、ほとんど何も思い出せなかった過去の記憶が出てきた。そうしたら「フラッシュバック」というのが起きるようになった。主には恐怖を感じた記憶がよみがえる現象で、それが起きるがと様々な激しい症状が発作的に起きる。呼吸困難とか吐き気とか身体のこわばりとか、まあ、何でも起きうる。「パニック発作」「パニック障害」と言う。

その間一番問題になるのはやはり恐怖だろう。それはとりあえずは思考で何とかするしかないでいる。もう自分に加害した人間は自分を襲撃しに来る可能性が限りなくゼロに近いことをちゃんと現実的に考えて自分を納得させ、もし今何か非常事態が起きたらどうしたらいいか再確認する。後は自分が最初ほどの感情のたかぶり方かどうかと身体の状態がどの程度異常か落ち着いたかを、自分の場合ひっくるめて大体のパーセンテージで表して観察する。呼吸困難が一番強く長引くので、とりあえず呼吸を止めず、浅く速くなっているからその逆を意識して大きくゆっくりするようにする。それくらいしかできないのだ。

フラッシュバックが起きた時点を100とするとまあまあ30を切ったりまた上がったりするくらいで強引に動けば動けるようだ。そこらで動かないと膠着状態が続くだけだ。

とんでもなく苦しくて激しくて消耗して、「今」は全部吹き飛んで消えてしまう。が、周りが見たってよくわからない。

そうしている内に、自分のパニック発作が2種類あることに気づいた。過去の記憶に「襲われた」時とそれ以外だ。

俺は自分が苦しんでいなければならない、と頭に刻み込まれている。苦痛がなければ自分は生存を許可もされず保証もされないと。
幼少期の、倒錯的な親からの扱いがその理由であろうことは疑うほうが不自然だ。子どもだから親から捨てられては死ぬ。が、母親が特にそうだったが、俺が何をしてもしなくても、できてもできなくても、全部気に食わなかったらしく、いつも激しく怒られていたか嘲笑されていた記憶しかない。

いつの間にか、酷い目に遭うこと=「罰」を常に受けることが、生きるための絶対条件になった。

子ども(4〜5歳の記憶である)だから自分の何が良くないのかなんだかわからない。「自分が悪い子だから怒られる」しか結論は出せなかったのだろう。だから「罰」だと感じるのだ。

罰がなくてもあってもつらいし本当に恐ろしい。
全肯定も全否定もされなければ苦しいしされても苦しい。

それが「病気」の形を取っていれば、俺はいつまでもどこまでも苦しんでいられるから「治らない」。

フラッシュバック由来でないパニック発作がずっとずっと毎日長時間続いて収まらないのはそういう理由だろう。


俺は本音ばかり言うし、自分のことしか考えてないし、本当に下衆でろくな人間とは言えないが、もう1人の「良い子」の自分からは逃れようがないから、どうあれ自分を裏切りようもない。そいつの性根をどうしようだとか考えているわけでもない。俺自身もずっとこんな奴かも知れないし、変わるかも知れないし、消えるのかも知れないし、共存して行くのかも知れないし、その辺はまるで予見できない。

ただ、今日と同じ明日が来るなんて耐えられない。ほんの少しだけでもマシな明日が来るように足掻いている。何回自殺を図ってもどうしても死なないので、もう生きてるからしょうがない、と思っている。

どうやら現時点では他に方法もなければ、これをできるのは俺しかいないようだから、ただやっている。

やっと、怒ることができた。

かなり感情的な状態のまま書いた。

 

最近精神状態が凄まじく変化するのだけど、今週は毎日、1日に1時間から2時間しか眠れない。その他明らかなPTSD症状がだんだん酷くなっている。
眠れないのは本当に苦しいしすべてに悪影響を及ぼすから眠ろうとするが、私は休む事に物凄い罪悪感があるのだとわかった。

眠れないし眠ろうとすると恐怖心があるのはそのせいだ。睡眠そのものではないようだ。入院時はウトウトしたりできるのだから。

今週の状態と言えば激昂と恐怖とパニック発作と……、まあ、たかぶっていると言えばそうなのだが、トラウマの追体験にだんだん近づいているらしい。

急性期(病名は急性トラウマ障害。ASDとも)の状態だ。
何だってトリガーになり得るが、今週飛び切りのが来た。詩織さんの件だ。

私はとても怒りっぽくなっているが、こんな引き金もそうはない。

そしてスタンフォードの被害者の声明文の翻訳を読んだ。
https://www.buzzfeed.com/katiejmbaker/heres-the-powerful-letter-the-stanford-victim-read-to-her-ra?utm_term=.nywMMZMqmA#.avOnnBnkA1

原文(The original text)

翻訳(The translation)

http://watanabe-yo.sorairoan.com/?eid=25

私に起きたことではないが起きる所だった。
その3年前には3日間の監禁脅迫に遭った。

どちらも相手の目的は阻止できたが、それでも私は十分破壊された。そして今も全く立ち直ったりはしていない。破壊と言うより殺された気がする。

発狂したと言っても良い。どうしたって正常ではない。

私はほとんどの大事なはずのことも人も何もかもを失っている。育ち方のためもあって、酷い罪悪感に苛まれている。私は誰も信じることができない。自分を否定されても肯定されても恐ろしくなる。

それは私が悪いのか?

何故私がいつもいつも責め立てられねばならないのか。
2012年2月、私の切迫した状況を利用して来た男に周到に連れ去られ、3日間金目当ての脅迫に遭った。生きて帰れるとは思えなかった。
何とか帰還した私を待っていたのは叱責に始まり、狂言扱いされ、誰1人心配したりなどの対応はなかった。

役所の担当者は監禁の加害者とそう変わらない人間に交代した。私はその最悪期をずっと担当者からの脅迫を受け続け(証拠を取っておけたらそれなりの措置に出ているだろう)、通院さえ妨害され、家に来る支援者達からも冷遇された。私は明らかに突然おかしくなっていたはずだが――

――そんなことを気にかける人間は全くいなかった。今思えば何かあったのかと心配して保健師やらに連携を取り、することがあっただろう。
私が日本語をどうしても使えなくなって英語でSNSをしだした時期である。

警察に被害届を出した所で周囲がこれでは何もならなかっただろう。私は何より復讐が怖かったし、とにかく体調がどんどん悪化して本当に起き上がることができなくなった。
それを「依存」の1言で誰もが一蹴した。日本語世界では。

その状態の私に時間をかけて信用させるよう仕向けた男に強姦されそうになった。

私が世界を敵に回したのではない。世界が私を蹴り出したのだ。
私は金づるの道具でもなければ税金泥棒の厄介者でもない、劣情の玩具でもない。

何故こんな目に遭った人間をいたわるなりする人がいないのだ。

私を助けようとした人達がいることは知っているが、何故私がその状態で周囲に気など遣えるというのだ。
誰か1人でも柔らかく温かい態度で接してくれていたらこんなことになってなどいなかったろう。私に手を差し出した人達の99.9%が結局は私を勢い良く放り投げた。私が悪いのか?

何故私はこんな仕打ちばかり受けねばならなかった?
私は泣いても怒ってもよかったはずだ。支援機関なんか大嫌いだ。私はあの担当者達を忘れられない。弁護士に相談したら担当者のしている事は違法行為だと言われたのに弁護士も助けてくれなかった。誰も優しくなんかしてくれなかった。

忘れろなど簡単に言うな。忘れていたとも、薬漬けになることで。だからフラッシュバックも何も起きなかったのだから。手こずって当然だろう。「死ぬかも」じゃない「これは必ず死ぬ」という状態で責められ続けて唯一の理解者である主治医の所に行かせてもくれなかった。

私が悪いのか?

何故私はこういう経緯ばかり辿らねばならないのだ。本当に私が悪いと言うなら私が同じ目に遭わせてやるから、同じ状況下で最低5年半を過ごして貰おう。それから意見を聞かせて頂こうか。

私が世界中を恨んで何が悪いのだ。私が正気でなんかいられる訳がないだろう。

何故この扱いや対応に文句を言っちゃいけないのだ?猜疑心の塊になって当たり前な目にあって、それでも自力で生還した私ばかりが悪いように扱われるのが正当なのか?

何故私がここまでの罪悪感でこんな狂ったようにならねばならない?

味方しなかった世界が悪い。私じゃない。

怒って当たり前だ。

怒ることも泣くことも厳しく禁じられて育って、30代にもなって更に心を破壊されて、やっとネットを通じて遠い国の人達が「なんてことだ!大丈夫じゃないだろう、逃げ出せ!なんて所に住んでいるんだ!」……等と言ってくれたのだ。私より先に怒ってくれた。それが当然だった。


それが当然なのだ。

「I'm sorry」のない社会

役所の担当者が来訪した。
前段として、支給されるはずの経費がずっと放置されており、何度もこちらから連絡しても反応がなかったので、今月は本当にきついことになっていた。

担当者と顔を合わせてみると、仕事ができないとか手抜きとかではなくて私の「出来無さ」「障害病気持ちの受給者の困窮度合い」などがわかっていなかっただけで、私が結構訪問看護師から言ってもらったり自分が言えた時に思い切りFAXしてギャンギャン言ったので気づいたものらしい。丁寧な聴き取りであったし誠実味のある対応をする気があることはわかった。実行力があるかは知らんが。

ただ、だ。私ほどの困窮度合いであり、かつ私ほどの文章力や行動力を持つ、という受給者は普通いないと思う。だから私の体調の重篤さ体力のなさ障害の酷さなどは伝わってはいないだろう。そもそもこんな状態になってるのにこれだけ助けてもらってなくて生きている人が珍しいはずだ。私とて今「減薬の副作用」的に怒りやすくなっているから強引に行動できたのだし、誰も助けてくれないのを痛感していたから早めに、本当の手遅れにならぬ内に動いたまでだ。

つまり本当にこれだけの助けが必要不可欠の人は放置されるのがこの社会の「スジ」なのだ。私の周りで不本意に世を去った人、しようとした人がどれ位いるか。もう何年も世間と隔たっているから明確な数も体感的な「率」も不明だが、6年前程の時点で私の「患者仲間」「受給者仲間」(顔見知り程度含む)だった人の半分近くは既に世にいないものだと感じていた。人づてに訃報は入っていたので。

こちら側から見ると多くの国民が気にしていることはほとんどが茶番にすら見える。以前いくつかのメディアで言ったことがあるのだが、社会保障制度の利用者や様々の犠牲者を鞭打つ精神は異常なものだ。その時例えに使った通り、今なら戦争などになって、自分が動けなくなっても国は助けてはくれないし、それを助長するということは何があっても自分は死んでも何されてもいいです文句言いませんと主張しているのだ。

平時(平時なんかではないのだが)これでどうなるか想像しないことが恐ろしいとわからないのが恐ろしい。

私は複数の事件被害者だが今の状況を作ったのは数々の「セカンドレイプ」だった(当時の筆頭が役所だったので今も役所や役人が恐ろしい)。私が隙を作っただの行動しなかったのと散々責められたり、すべてが信用できない状態になって過剰反応したり攻撃性を現していたから人は離れるし色々悪し様にも言われたが(今もだ)、何故そうなったかに意識が行く人は非常に少ない。また、話してもわからない。私がどれほど自分を責めたかも絶望したかも「同情を引きたいからだ」と一蹴される。
私が欲しいのはただ、一般的な助けだった。そして「I'm sorry」― 詫びではない、この訳しにくい言葉が外国の友人達からはあっても日本人がその意を表現したことは記憶にない(あっても覚えていない)。説教は山程された。おかげで更に追い詰められた。

私が怒っている対象はとても多い訳だが、怒れるまでの過程を誰かが経験することを基本的には望まない。初めからこんなこと、起きるべきではないのだ。

それでも起きるものは起きる。「最初」に私に起きたこと(いくつもあるのだが)が私には防げなかった。誰が防げるというのだ。私は抵抗しなかったのではない。できうる対処もした。だが、それらができなかったとしたって私達が責められる理由はない。次はあなたかも知れないのだ。

自分を含む何もかもを恨むしかできなかった頃、私はみんな同じ目に遭ってしまえばいいとも思っていた。今もその気持ちが消えたとは到底いえないが、なったらなったの地獄絵図が容易に想像できるのだ。

その地獄はそこら中にある。ただ露呈していないだけだ。ただみんな知らないだけだ。きっかけがあっても目を背ける。自分はいつも無関係だと思い込んでいる。ずっと無関係でいられて高みの見物を決め込んでいられるものだと思い込んでいる。だから無神経さを維持できる。

それが異常だと私は思う。せめて善意を持とうとも思わないなら、それが自分に還ってくるという話なのだが。

グリーフケア

グリーフ【grief】悲しみ、悲嘆、心痛
ケア【care】手当て、治療

自分のこれまでの人生があまりにメチャクチャだったので理由を探って、ひとまず行き着いたのが幼稚園時代の親との関係だった。

長らく、理屈ではそういうことだろうと思っていても実感がついて来なかった。記憶がほとんどなかったことと、あらゆる感覚が麻痺していたというか鈍麻した状態だったためによくわからなかったのだ。

18歳くらいまでは病気という形で無理に適応し、通院を始めてからは病気と薬の両方で無理矢理生き延びたから、記憶障害や感覚全体の過剰な抑制が常に続いていた。ここ数年で2回危険な目にあったがカウンセリングも何も助けになるものがなかったので薬で更に抑え込むことになった。

***

今は薬を減らし出して、一気に神経系への抑えが取れて感覚やなんか全体が過剰に働いている状態だから、抑えていた記憶にアクセスできるようになり、それに対して心身が「ちゃんと」反応するようになったが、とにかく過剰で過敏だ。いちいち症状に向き合い過ぎてしまうと余計神経が興奮して悪化するから、「正面切って闘って」はいけないのだとは気づいた。「何とかしようと抵抗する」ことで危機感が上がってしまうのだろう。

過呼吸とか動悸とかいうのは危険から逃げるか戦うかするために酸素を取り込んで血流を上げるためのシステムが働いている状態だから「苦しい、何とかせねば」と慌てたら「え、もっと必要?」と神経系が「誤作動して更に興奮する」感じだと思われる。こういうのが「パニック」と呼ばれるらしい。
症状は「起きうることは何でも」のようだ。痛いとか苦しいとか気持ち悪いとか感じるのは神経のかたまりである脳の働きだから、何だって起きうる。また神経系が過剰に働くから刺激に対して知覚が過敏だ。目が凄く痛くなる(見え過ぎる感じ)、耳鳴りがする、幻覚も見えたり聞いたりすることがあるらしい(私は幻覚は今の所未経験)など。感情も過敏になるが症状だらけでストレスフルなのと過興奮性の両方の理由による感じだ。

薬や他の不自然なこと以外の方法でがっちり対応できるようになれば脳は過剰に活動しなくて良いので安定して行き(=適応が新しく形成される)、不要なことは自然におさまるということのようだ。

***

幼児期の「とにかく怒られる、何をしてもしなくても非難される、絶対に優しくもされず褒められもしない、恐ろしいだけ」でしかなかった親との関係から私は小学校前に色々な症状を呈していて、そこから何も変わっていないように感じた。4、5歳で人間としての成長が止まってしまったのではないかと強く思えた。

心の中に見える、園児服を着たガリガリに細い子どもに声をかけてみるということをしてみた。

その子は私自身なので、彼女が抵抗感や罪悪感を持つと思い切り症状が出た。その子は終始おびえていてひと言も口を利かず、近くに寄っても来なかった。私が感じる激しい息苦しさやあちこちの痛みが返ってくる答えだった。彼女が背負っている重荷がやっと感じられた。幼児が負えるものでは到底ない。少なくともその4歳児には彼女の親が乗っかっていた。それだけには見えなかったがよくわからなかった。

とても悲しい。私が何と言ってもすべて彼女が苦しむ言葉にしかならない。全部自分が悪い子だからこうなるのだ、自分は人間じゃなくてモノだと思っていた。それは違うと言えば酷い罪悪感で苦しくなる。親を否定することになるからそれは子どもには苦痛だし恐怖だ。あんまり苦しいから人間であることを自分でも拒否したのだ。

これからは邪険にしないで大事にすると、言おうとしただけで息ができなくなったが、そう言った。今書いていても苦しいし痛いし悲しいが、こういう対話の仕方をしなければ、全然、わからなかった。自分がどう感じていてどう考えてきたのか、ただ自分の記憶を探っても出て来なかった。

その子が無事に重荷を降ろして成長するよう、私がまず、優しくしてやろうと思う(人に優しくするというのもわからないけど、とにかく)。自分を大事にすると言ってもどうせ感覚的につかめないが、血色の悪い、食の細い、寝不足で、いつも独りの、いたいけなちっちゃな女の子を守ろうとするなら、それはそんなに感じるのが難しいことではない。可哀想に、とも思える。だって、可哀想じゃないか。

彼女を見捨てる理由は、私にはない。見返りだっているわけがない。そうしたいからそうするのだ。

薬とPTSD

減薬5週目、32日目。

当初は離脱症状と呼ばれる、「薬の量が減ったりなくなったりして起きる症状」が酷くてほとんど何もできなかったが、今月13日か14日からそちらはいくらか軽くなり出した。が、PTSDの症状が出るようになり、そちらがかなり酷くなって来た。ここ3日間は毎日フラッシュバックを起こしては激しい症状に見舞われる。

薬で神経系の活動を抑えていたので薬が入ってくる量が減れば、神経系(簡単にいうと神経全体)の「たが」が外れた状態になる。過剰に活動するようになるのだ。何にも過敏に反応する。過剰な興奮状態になる。

症状を挙げるのは難しい。何でも起きうるからだ。私が経験しているものを書くと、

頭が興奮したままなので休むことができない。じっとしてもいられないが身体を動かすこともほとんどできない(身体に力が入らないのと様々の症状が激しくて苦しいので動くどころではないからだ)、眠れない、思考力や記憶力の低下(認知機能の低下。物忘れ、記憶できない、理解できないなど)、怒りやすくなりイライラし続ける、ストレスや負担に極端に弱くなる。最近の私はずっと機嫌が悪い。些細なことで感情的にもなりやすい(疲れるとそうなる)。起き上がっていられない。寝ているのもしんどい。

考えることが酷く負担で、言葉を考えたり、書いたりするのが脳には一番負担らしく、あまりできない。字を書くのはしんどい。手に力が入らないことが増えたので手書きがよくできないし、スマホを正確にタップするのが難しいし、酷くなるとスマホを支えていられない。画面が眩しい。他、自分にとってストレスや負担になることをしたり、そういった刺激を受けたりすると、頭痛、腹痛、強烈な眠気(だが絶対眠れない)、耳鳴り、眼痛、過呼吸(呼吸が浅く速くなるが止まってできなくもなる。酷く苦しくて何もできなくなる)、動悸、酷い汗(体温調節が狂うようだ。断薬経験者に聞いたがやはり発汗は酷くなったそうである)、各種の神経痛(三叉神経痛=顔面の神経痛、肋間神経痛など)、胃痛、吐き気、背中痛。また常時お腹を壊している。元々弱い箇所の症状が強化して簡単に出るか出っぱなしになりやすい。

なお、負担がかかって出る症状についてはおおむね負担が強いほどあとの症状まで出る。
このリストは大体減薬3週目に作成したものなので、少し今とは様相が違うが、こんな風に「身体に出る」ものが多い。もちろんこんなものが続いているから酷く疲れる。疲れるからまた悪化する。

他に起きうるものが抑うつ状態とか幻覚などだが、キリがない。幻覚も過剰に神経が活動するから起きるだけだし、抑うつ状態も攻撃的なのもこういった経験がストレスだからでもありまた過敏で過剰に反応するからだ。薬で思い出さなかった昔の記憶が唐突に蘇る。それも大抵不快な形で。こういうのがフラッシュバックだというのであれば、私にも起き始めた。大変簡単なきっかけで昔の酷い記憶が「襲って来る」らしく、私の場合はあまり詳細に思い出す前に吐き気や動悸、酷い過呼吸が起きるが、めまいも神経痛も起きる。

だから「離脱症状」という名称は恐らく便宜上である。

こういった症状、神経の過剰活動は、環境や負担、ストレスに対して新しく適応ができあがれば消えていくらしい。

私には離脱症状が起きるとは思わなかったと主治医が言った。つまり、見立てでは薬は大して減らしていないのだ(私も減薬を始めた日は「これだけ?」と拍子抜けした)。
このように個人差が大きいため、断薬までの期間は想定できない。

私の減らした薬の1つは「力価」というのが大きい。少しであってもたくさん飲んでいるのと同じだという話だから、いきなり半量になったのは「減らし過ぎ」だったかも知れない。また、私はかなり長期にわたって精神科薬を飲んでいるし、少ないとは言えない。そうなった経緯は少しおいておき、薬で何でも対処する習慣が強くついている。依存というわけだが、これを自覚することはかなり難しい。自分で気づくことはできないだろう。だから薬なしではストレスに上手く対処することがまだできない。

上手く、というより、「今しているこれでいいのだろうか?」とか、そんな感じだ。毎日切り抜けるのが精一杯で、「こんなことやってて先へ進むのか……?」と思うのが正直な所だ。

私はカウンセリングを受けているわけでもないし、主治医の予約は減薬後1回しか取れなかったうえ、その日は支援者が同行してそちらへの説明に時間を取られ、減薬などに関わる話はほとんどできなかった。そして次の予約は来月だ。本当は毎週通院が先生からの指示だし私の希望だが、今回は連休や学会があったりしたこともあるし、交通費が確保できないのが一番の理由だ。主治医ほど私の理解をしている人はおらず、カウンセリング能力もある人なのだが。

PTSDと増薬の話。

この数年の間に私は2回、他人から故意の悪意(立件できれば刑事事件である)を受け、PTSDになったが、その当時に支援機関の担当者から更にとんでもない目に遭わされた。私に特別に必要不可欠な支援のほとんどを「怒られて」打ち切られたり、入院、通院をさせてくれなかったり、同意していないのに恐喝のような電話の後勝手にお金を天引きされたりなどだ。
弁護士相談はしたが、はっきり違法だというのに私の体調不良を理由に案件を受けてくれなかった。寝込むような状態でなければ当時の私であっても動いたが、そこで心が折れてしまった。今もその支援機関の建物など思い出すだけで吐き気や過呼吸や動悸などが起きるから、担当者が代わってもどうしても近寄ることもできないし、とにかく怖くてたまらない。本当は関わるのもやめたいが今「自立」できる状態ではない。

――全く起き上がることもできない状態になって満足に口もきけなくなっても、PTSDなど人が理解できるものではないから各支援機関の対応は本当に酷かった。そもそもいまだに私が何かされたなど信じてもらっていない。「怠けたい一心で作り話をしているただの依存」というわけだ。

私がどう動いても助けを求めても、誰も助けてはくれなかった。カウンセリングはお金がないし私は寝たきりで通うことができないしで受けようもない。せいぜい、主治医から薬を配達で送ってもらうことしか私にも主治医にもできなかった。また主治医からは自作のカレンダーが送られて来たりもした。そんなことをしてくれる人は他にいない。

薬を使う以外の選択肢は断たれたのだ。いくら何と言ったって誰も応じてくれない、主治医だって私が行かなければ私からの連絡で状態を推測して薬を出すしかできない。
通院がある程度の頻度で再開してからもPTSDの治療は目処が立たなかった。元々かかっていたカウンセラーは異動させられてしまった。主治医は一般的なカウンセリング能力はあっても物理的に時間が取れないし、そちらの専門でもない。
また、他の医者を探すことは支援の制約上できなかったし、今更この状態の私を理解する医者を見つけて関係を築けるとはとても思えない。カウンセリングができる医者、というのは恐らく自費だろうし、そもそもそういうことをする医者がいることを私は知らなかった。
支援制度でかかれる精神科は一箇所に定めなければならない。私は入院先が主治医の所ではないので、事実上セカンドオピニオンを受けていることになる。これは良くは聞けずにいるが特別の措置のようだ。藪を突突いて蛇を出す真似はしたくないのが本音である。入院先のドクターはカウンセリングしてくれるわけではない。薬嫌いのドクターだが、状況的に仕方ないと嫌々処方してもらっている。

ともあれ、薬が増えたのはこういう過程を経てのことだ。
だからどうだとも言えない。依存は依存だ。ただただ私は死ななかっただけで、この孤立状態で(というよりほとんど敵対者ばかりの状態だ)生存したのは私の力と言えるかどうか。私自身はこの間に3回自殺を試みたが未遂に終わっている。

その私が薬はやめると言ったのだが、実際に減薬を始めるまでは記憶はあまりなく、思い出すことがあってもあまり何か感じることもなかった。こんな風になるとは思っていなかった。

だからといって薬を戻したいとは思っていない。あのまま、薬しか「何かを乗り切る」手段がないと思い込み続けていたら、いくら薬があったって足りないだろう。何か感じるのを妨害するものなのだから(はっきりPTSDがある、死ぬような目にあった記憶があるという現実から一時的に逃げるのに使ったのだから)、私は現実の何もちゃんと感じることができないままだ。それでは現実に適応できる能力が育つはずはない。正しく感じないものにどうやって適応するのだ。それは、減薬を始めてからのほんの僅かの成功体験でわかったことだ。

すごくゆっくりやるしかないのだろうか。色々同時進行なので、いっぺんに全部解決する方法なんかないだろうし、これでもこれまでからするとものすごくたくさんのことを切り捨てているのだが。

そして始めなければならなくなったことが「自分を育て直す」ことだ。これはまた別の記事にするが、私は現実として「育っていない」のだ。それはそれでまた別のPTSDなのでやはり症状が出るのだけれど、どうもそれもしないとおさまりがつかないように感じるし、それが全体のカギなのかも知れない。

私は自分の感覚に自信がない。助言もらったこともどうやって組み立てればいいかわからないし、その前にあまり思い出せなくなっている。数時間眠ったら今日の記憶は容易には思い出せなくなる。これでいいのかわからない。

幼稚園時代に形成された世界と言葉

私が何故言葉にこだわって書くことをしつこく続けているかに行き当たりました。いくらか記憶が出て来たので書いておきます。幼児期の話になります。

どのくらいこだわっているかですが……。
 
今の私の文章は薬の離脱症状に見舞われながら書いているのであまり推敲もできないし、決してうまくはないですね。普通ならこの状態でブログなんか書くものではないのかも知れません。他にすることもあるし、余力があって書いているのではありません。今のところ、かなりやり過ぎの状態だという自覚はあります。

それでも私は習慣化するほど書いています。
書く練習というか、まともな文章力が欲しいのです。書くことをもっと自在にしたい。言葉が扱えるようになるので、現実の人と話すことに凄く影響するんです。字数を削るとか重複を避けるとか表現を変えるとか1文の長さとか、ひとつの文章が一貫性あるかとか、いくつかのポイントを意識し始めていたのですが、これは話すことを整理できるようになりますね。もちろん、文字でのやり取りも上達します。(当たり前ですが)
 
私は人からはあまり会話に不自由しているとは思われません。むしろ相手が言い返せなくなるまできっちり話すと思われてしまうことが多いです。わかりやすいとか言われることも多々あります。アスペルガーとは思えないとか、そんな障害があるように見えないから大丈夫(?)等々。
 
いずれも、元は望まない訓練の結果です。
 
私は発達障害者(アスペルガー、現在の呼び方は自閉症スペクトラム)で、話し言葉にはかなり苦労しました。幼稚園に入っても私から何かを言うことができませんでした。言葉が出て来ないのです。
親によれば、私に字を教えたことはなく、私が3歳から勝手に絵本で字を覚え、書き物をするようになったそうです。私は幼稚園で色々と詰め込み型の勉強をさせられた世代なのですが、読み書きは入園前にはできていたようです。幼児期に私が書いた物は実家にそこそこ残っていました。
 
でも、私はしゃべれませんでした。聞いたことは親から見たところ理解できていたそうですが、会話というコミュニケーションはないままでした。
 
何歳で話すことができるようになったかはっきりとはわかりませんが、幼稚園の時にちゃんとしゃべっていなかったことは記憶にあります。ろくな意思の疎通ができずに私がギブアップしてしまい、泣いてばかりで、先生をかなり困らせたし、周りの園児達にはいつも責めるような口調で物を言われるように感じていました。そして私は何か言われても返事(回答)ができませんでした。何が言いたいことなのか自分でわからないし、表現が出て来ませんでした。とにかくいつもいつも泣き出してしまう。頭で状況をシミュレーションして、何かしら訴えたいのですが、本当に簡単な言葉しかその場では出ません。単語で話しているのに近かったのではないかと思います。
 
どうすればその時にしている作業ができるのかわからなくなることがよく発生したのですが、それを訴えるための言葉を発するまでかなり時間がかかりました。どう言えばいいかわからないので、説明するために状況を考えているうちに「できない」という事実しか頭になくなってしまうのです。それで絶望的な気持ちになって「できない」と言いながら泣き出す。それ以上はいくら考えてもただもう無理だとしか思えないので、何か聞かれても説明しようがありません。
ただ、何故そうなるかは、このままでは飛躍気味に思えなくもありません。
 
例をあげると、着替え、工作、楽器の演奏、カトリックの幼稚園なので教会で祈る時間があったのですが、合掌している手が冷たくて辛いことを言いたい(冷え性のようでした)、体操(体育)はできないことのかたまりでしたので(身体が酷く不器用だったのです。発達障害で言うと動作性や「目と手の供応動作」が凄く低かった)その時間自体が死ぬほど苦手で、周りの園児が楽しそうなのが理解できませんでした。体育の先生は今考えるとかなり優しいお兄さんだったと思いますが、当時は大声でできないことを迫る怖い大人でしかありませんでした。階段を降りることもおぼつかないほど身体が不器用でしたから(後に足が少し悪いと発覚するのですが、それは高校生の時でした)、歩くのも怖いくらいです。ですから外遊びはもってのほかです。ですが、それらをどう訴えたら良かったか。手順がわからないというのもありますね。歩く動作にさえ混乱するのですから、本当にできることがなかった。
 
着替えで思い出しました。
 
幼稚園は制服で通いますが、着替えにもたつくので、家では怒られながら着替えさせてもらっていました。私が自分でしていると時間に間に合いません。「お姉ちゃんなのに恥ずかしい!」と毎日怒られました。他の日常的なこともたくさんできなかった。親は辛抱強く待つたちではなかったので、私はいつも怯えていました。パニックになってできないと叫んで泣くしかできなかった。また怒られる。そうして悪循環ができていきました。

「怒られる」恐怖があるから、コミュニケーションや挑戦をする前にパニックになってしまい、そこから思考も何もロックされた状態になるのでどう言えばいいかどうすればいいかはわからなくなり、絶望でいっぱいになって泣くだけ。外の世界でも私は怒られるようにしか行動できなかった訳です。周りには何故私がしないのか、しゃべらないのかわかりません。それで泣いているだけなので、甘ったれているとかいう解釈になっていくようで、だからいつもいつも責められ怒られたのです。幼稚園は大嫌いでした。毎朝門柱にしがみついて泣いて、入るまいとしていました。嫌いというより、怖かった。

コミュニケーションがまともにできませんから私は独りでばかりいました。幼児期に誰かと遊んだ記憶はありますが、からかいや明らかないじめ行為を受けたり、非難されることになったことばかり思い出します。独りで本を読んだり粘土細工やお絵描きに没頭していました。誰かがその繊細な大事な世界を壊すように入って来て乱暴な行動とマシンガンみたいな言葉を浴びせてくることに、私は耐えられなかった。
人とは接触したかったのですが、持っている世界の認識が全然違ったので、できなかったのです。共通の言語がない。誰ともありませんでした。もちろん家族も仲間ではなかった。父にはよく遊んでもらっていたけれど、父が私達子どもに要求した理解度の水準は高過ぎました。私は6歳の時には父が作った小学校中学年程度の問題を解いていたし、それが可能であれば、他のことのレベルもそのくらいだと思ったのでしょうか。私が父に合わせていた感じは覚えています。子どもに甘いようで、いついきなり癇癪を起こして怒られるかがまるで予見できない人だったからです。
 
私は両親に見放されまいとして必死に彼らの機嫌を取り、彼らが怒るのを防ごうとしました。子どもですから、養育者から捨てられたら生きていけません。私は本当にそれが恐ろしかった。
でも、怒りと嘲笑とが返ってくることがほとんどでした。あるいは、反応もされない。無表情に私を見て、何の返事もなく立ち去る母をよく覚えています。またはため息が返ってくる。これは本当に多くて、機嫌を損ねたらしいのははっきり示されるけれど何も言ってくれない訳で、物凄く恐ろしい行為でした。
ですが、両親とも、自分が話したいことはいくらでもいつまでも話しまくりました。年齢的に私が理解できる内容や話し方ではなく、大人と話す話し方でした。私はそれを指摘したことがあるそうですが、両親とも私に合わせて直すことはありませんでした。
相互のコミュニケーションではなかったのです。私は聞かされるだけでなく、機嫌を損ねないよう、興味あるフリを続けていました。実際は何を言われているかわかりませんでした。話題はわかるけれど、言葉遣いも内容も高度過ぎました。それでも必死についていった。楽しくはありませんでしたが、親子とは、人間とはそういうものだと思っていました。よくわからなくてもニコニコして聞く、頷く、私の感情や状況は関係ありません。早くやめて欲しくてもどれだけ苦痛でも(わからないことを延々聞かされて楽しそうなフリをしていれば苦痛です)、私はどうすれば機嫌を損ねず、喜んでくれるかに腐心していました。怖かったですから。
 
私の発語(言葉を言うようになること)がとても遅かったのも、そうなった一因かも知れません。双方向のコミュニケーションが成立することは難しかったでしょう。が、私はどんどんただの接待ロボットのようになっていきました。それは母が私をさして言ったことからそう思うようになったようです。「あんたなんか機械と同じじゃないの。食べて寝てりゃいいんだから」。そういった内容だったと思いますが、確かなぜ機械と同じかの理由はもっと列挙されました。赤ん坊なんか泣いてればおっぱいがもらえて、それで泣きやんで寝るんだから、機械みたいなもんよ、とか、いつものように機関銃のように言われる一方で、私はニコニコ頷いて聞く「機械」でした。口を挟むことができる言語能力はまだありませんでした。5歳前後ですから、親のいうことは絶対です。私に語彙もありません。何が彼らを怒らせたり、興をそぐのかもわかりません。
 
私が自発的なことを望むと状況が悪化することを学び取り、私は両親が気に入る話題や行動だけを必死で汲み取ってするようになりました。話題は聞かされまくっていたからストックしていて、あとは私が何とか聞いてもらえるような話し方をすること。ですから、私は子どもらしいであろう言葉遣いを知らないで育ちました。私の都合は彼らの意に介されるものでは全くありませんから私が合わせるしかありません。
それでも、いくら合わせても、怒られバカにされ、病気になっても放置されて死にかけ、幼稚園時代にはあまり眠れなくなっていました。キリスト教教育で死後の世界の話をされたのだと思いますが、小学校に上がる頃には死という概念がわかっていて、死にたくてしょうがなくなっていました。

発達障害由来の私の「できなさ」も彼らの理解を超えていたのでしょう。だけど、あまりに怒られ過ぎだし、3歳児に「自分達は人間だから間違うこともある」と言ってのけ、私のことはしじゅう嘲っていることはやはり異常だと思います。その人達の機嫌を損ねず、言われていない要望を汲み取り、先に叶えてやることは、私がおかしくなるのに十分な材料だったはずです。世界がおかしいまま、言語能力だけは高くなりました。彼らとばかり「コミュニケーション」し続けたからだと思います。外の世界の人とは、これでは話が合うはずありません。
 
私が基本的に独りで遊んだのは、こういう現実世界から逃げて独りでいる時間を設けなければもたなかったからかなと思います。だから誰かに侵入しないで欲しかった。だけど、自分の孤独は痛感していました。
 
生きていることが、苦しかった。
だから私は生きていない「モノ」だと思うようになって行きました。
他の人がそういう感覚ではないなんて想像できませんでした。
大人になるまで生きていると思わなかった。なんとなくでしたが、周りの大きい人達のようになる自分なんて想像できませんでした。
 
それでも本当に死にたかったのかわかりません。大人になるまで生きているわけがないと感じていました。それは救いでもあるようで、絶望でもありました。
 
私の表面的な会話スキルはこうして獲得が始まったのです。
 
何も私の意思も希望もありませんでした。
両親は私でおままごとがしたかったのでしょう。
 
これが大体6歳くらいまでの、私の世界と言葉の感覚が作られた経緯です。その後、これが私の世界観で人生観で人間観になった状態で何十年も過ごします。

現状を受け入れる

減薬2週目半ば。
 
どうも昨日、フラッシュバックか、それに類するものを起こしたらしい。
 
自分の過去記事を読んだら酷い身体症状がドカッと出た。「毒気にあてられた」とか言うが、そういう感覚だった。
 
私はフラッシュバックというものを起こしたことはないらしい。記憶が鮮明に蘇ることはほぼないし、カウンセラーの見立てでは「思い出した、というレベル」。それが正しいかどうか、その時の記憶も曖昧なのでわからない。
 
昨日読み返したのは、過去の酷い記憶について書いた記事ではない。だが強烈に嫌な気持ちを吐き出したものだった。ついでにいうと、非常に読みにくかった。文章が下手すぎるという意味だ。だから余計に負担だった。
 
実際に吐くかと思った。呼吸も苦しくなったし、動悸も酷くなったし、あちこち痛くなった。慌て気味に使っているSNSのひとつに行って記事を書いている内に整理ができたようで症状は軽減した。が、相当に疲れたようで、その後、身体に力が入らなくなる症状が出たりした。
 
自分の書いたものを読み返してそういう状態になったことはなかった。勢いで書いた記事なのでメチャクチャな感じだが、SNSに書いた記事を引く。
 
 
自分で読んで本当に気分悪くなった。何書いてんだ。そしてひっどい文章。読みにくいったらない。今年の1月のとかでこの始末か。

なんかビックリした。確かに吐き出すためのブログだけど、今みたく敏感になってると毒気にあてられる。なんで4人も読者いるの、っていうかアクセスが1,000超えてるって皆様何読んでるんですか。

スゲエ。自分の過去記事で吐きそうだし凄い頭痛する。

そもそも書くにあたって自分で読み返す気はなかったんだけど、「自分が」超ストレスに感じたことをメインに書いてるんだから具合悪くもなるか。これまでならなかったのが異常だよね。

今が正常なんだろうけど、はあ……。ああ、いくらか落ち着いて来た。

記憶がもっとちゃんと戻って来たらハッキリとフラッシュバックとかいうヤツ起きたりするんだろか。今もしかしてソレ?なのか?

そうなのかも。わからんけど。

わからんけど、今のが正常だってことがいくらか救いだ。前に私の記事読んで気分悪くなった人いたんだけど、どうやら書いたことについては感謝されたようなんだよね。

だから不快なことも自分が書けるだけは全力で書くんですよ。私自身は私のために書いてるんだけど、受け取って安心とかする人がいるんですよね。私も、他の人が虐待受けたことについて書いてるブログ見つけたり、そういうことがあって前向きに生きようとして奮闘してる仲間が今一応ネット通していることはいることに力をもらってるんで。

しんどいけどね。でも、手記や自伝ってよくあるでしょ。本人は自分の気持ちや記憶の整理のために書くんだけど、わざわざお金出して読む人がいる訳です。誰かには不快でも誰かには救いだったりする。

それやってるんです、私は。
 
 
無理矢理まとめている感じだが、どうにもこういう風に持って行かないと収拾がつかなかった。
 
私に起きている様々の激しい現象を離脱症状とは言っているが、これは負担や疲労やストレスに対する当たり前の反応なのだということに気づかざるを得ない。
 
薬で抑えていたのだから、薬が減れば出るに決まっている。薬の成分が定期的に身体に入って来て「安定を保っていた」訳で、簡単に言うと減れば脳だか身体がビックリして不安定にもなる。また、何の知識もないが、薬の作用で脳に何か影響があって具合が悪くなっているとしても驚くに値しない。ただ減ったというだけでこんなに凄まじい症状が出るものなんだろうか。しつこくリンクを張っているアシュトンマニュアル(ベンゾジアゼピン薬をやめる手引書) http://www.benzo.org.uk/amisc/japan.pdf に色々書いてあるようなのだが、今私はほとんど文章が読めないので読んでいない。ほかにも資料はあるだろうがとても読めないので、ほとんど体感と憶測で言っていることは理解いただきたい。
 
ともあれ、「今が正常だ」ということを思うと症状が軽くなる。非常にわかりやすい。現状を認めて受け入れていると、自分とバトルをしなくて良い。何とかしようとして無理をするとどんどん具合は悪くなる。
 
記事を見て嫌な気持ちを思い出し、「フラッシュバック」が起きたのであれば、現実から逃げなければならず、記憶ができず思い出せない状態や現実を感じることを拒絶していた状態から、正常に近づいたと私は思ったのだ。私は当然正常になりたいのだから、受け入れられる。――今のところは。
 
今週はもう木曜日だが、月曜からずっと身体がキツい。主治医の見立て通りぴったり7日で最初に起きる激しい症状はいったん軽くなった。が、なまじ半端に軽くなったために、私は戦い出してしまった。症状が出ないためには、とか、気を紛らわすにはとか、外出しなければとか、誰かから助けを得るにはとか、今の私が支援と折り合えずにいることをどうにかしなければとか、現状をコントロールすることばかりに気持ちと行動が行ってしまった。試行錯誤をしていることは良いのだろうが、「負担にならないため」の工夫で余計負担になるようにしていた。ここに列挙しただけで自分でも酷いなと思う。こんなにあれもこれもできるわけがないじゃないか。
 
現状を受け入れられないというのは、自分を受け入れられないということだ。弱い自分、後ろ向きな自分、依存する自分を、私は受け入れられないでいる。もう自分を受容せずに罰する親はここにいないのに、今の環境はまるで実家にいるのと同じ状態だ。
 
せめて自分くらいは自分の本当の味方でいる方が、結局は幸福とか楽しさになるんだろうというのは、やっぱり身体が気づいて教えてくれているのだ。もっと自分に優しくて良いんじゃないのか。無理して褒めてもらったって何も続きはしない。身体が教えてくる速度と、何が自分には良くて何が毒なのかに、無理せずに従う方が得策だろう。
 
と、これから何度も気づき直すのだろうか。
 
「何とかなる」という感覚がない。いつも「何とかしなければ」だ。これまで生きて来れたのだから、何とかなるんだろうと思っていればいいんだろうね。
 
そうなれたら、ラクなんだろうな。
 
今は何もできないのだから、それを受け入れて淡々とできる最低限のことだけして、あとは寝てでもいれば。もう自分で自分をいじめるの、やめないか。

離脱症状について(手元の日記より)

※本当に日記を写しただけです。
 
記録なんかしていると症状が悪化するのはわかったが(言葉を扱うから)、現状で人的な心理的サポートがほとんどないに等しいため、自分がどういう経過を辿ったか一目瞭然にしておき、苦しくなった時にどう対処するのが良いかわかるようにしておく必要がある。
 
特に最初期が最も苦しい症状を呈するということのようだが、それすら私にははっきりしたことが不明である。
 
自助グループもなければ何らかの有効なホットライン的繋がりもない。知識がある人や同時に経験中で分かち合える人といつでも連絡できる、話せる状態でもないので(いつでも、というのは難しいにしても、通常想定し得る知り合い、友人のネットワークすらないのでは困るというのが正直な所である。そして知識があってもそのようなサポートに回ってくれる人はいない)、記憶があまりできない私は「少しであっても前の状態が」どうだったか記しておいて「現状」と比較するしかない。
 
記録があまり読み返せるわけでもないが、漫然と過ごせば意識しないから、ただ不安感や辛さが増すように感じる。書くこと、言語化しておくことが、これまでの経験上では理解や記憶、整理をするのには最も有効であった。
 
対処法が身につくか、サポートがあるか、症状の軽減があれば(症状の軽減についてはあまりわかることがないが)、記録は不要かも知れない。現状では例えばアシュトンマニュアル http://www.benzo.org.uk/amisc/japan.pdf を読むことも困難だ。そのマニュアルにさえ、サポーターの必要性がかなり強調して書かれているくらいだ。この孤独を意識してしまうとやはり参ってしまいそうにはなる。
 
その意味では工夫が必要だし、今のところ、強がりの部分は本当は大きい。自分に平気なフリをすることがどうなのかと言えば、これまで良い結果があったためしはない。が、他にできることはどうもないのが現状だ。仕方ないから、ウソではない範囲のポジティブな気持ちや発見などと、ただの記録をする。記録は負担だが「役に立つ」からしているのだという意識が支えになっている。実際、客観的記録はこれまでの数か月で効果があることが証明済みだ。あとでブログにするのも、今リアルタイムで記録しておけば、記憶だけを頼りにする時の苦痛は軽減する。ブログであれ何であれ、書いて誰かに見てもらうことは意味があると確信している。
 
同時に今さんの本を読み出したのは良いタイミングだったと思う。
 

 

生きちゃってるし、死なないし―リストカット&オーバードーズ依存症

生きちゃってるし、死なないし―リストカット&オーバードーズ依存症

 

 

「死ぬ自由」という名の救い----ネット心中と精神科医

「死ぬ自由」という名の救い----ネット心中と精神科医

 

 

遺失していたが買い直して良かった。昔の私ではあまり響かなかっただろう。特にこの数年は無理だったと思う。今だって読むこと自体はすごく大変だが、あまり考え過ぎずに感じ取るように読んでいる。
 
大体、本を1回で理解すること自体がそもそも無理なのだ。英語の読解でも日本語(国語)でも、最初の1文で引っかかってないで読み進めるのはセオリーだ(趣旨や結論を書いてから解説するのだから当たり前だ)。読むうちに先に読んだことが消えるから戻らざるを得ないが、あまりやり過ぎずにとりあえず読み進める。概ねブロックごとには読んでいるが、本の頭から順番には読んでいられない。恐らくこれは1回では理解や記憶ができないからだろうし、「今読みたい箇所」があるからだ。
 
こういう感覚も忘れていた。
 
今はただ言葉を考えることだけでも殊の外負担だから、書くより読む方が症状が出にくい。精読していないわけだができるわけがないし、試みたら吐きそうになったから(内容のせいではない 笑)、ダラダラ何度も読む。
 
昨夜も症状が強くて眠れないので読んでいたが、かなり笑ってしまった。普通、笑うところかかなり疑問な箇所ばかりだ。私は色々な経験者であり、マジメにも考察できるが、「痛い所をつかれた」というような箇所が別に痛くないのだ。面倒なので引用しないが、誰も否定もせず押しつけもしない書き方もあると思うし、まあその点は私にも変化はあるのだろう。本当、これ笑い飛ばす本なんだろうか。帯には「笑い飛ばし」ってあるけど。
 
眠れそうになったのは午前2時頃だったが、ほとんどの症状がない状態になっていたし、どうしても食べられなかった食事もさっさととれて、それで気分が悪くなることもなかった(他の時間帯だと吐き気が出る)。
 
症状としての眠気とは違うと思う。深夜しか「正常」にならないのは昔からだが、本当、それで何がいけないんだろう。昼間なんか緊張度が上がってろくなことにならない。今など強烈な眠気と過剰な緊張が同時に起きるから(何だかそういう症状の出方をするらしい)深夜2時から眠るまでだけが比較的ラク。
 
というわけで、何もオチはない。顔の神経痛とかたまらんのでいい加減やめよう。

減薬報告と色々混ざった。

減薬5日目である。(2017/04/26時点)

ずいぶんときつい症状が出ているのでネット上にはほぼ現れていないが、精神的にはさしたることもない。
薬を減らしたり断ったりして、「薬物が足りない状態になった」ために出る症状を離脱症状と言うが、これはどうせ待っていれば消えて行く。何より理由がわかっているなら不調と言っても慌てて不安がることもない。だから断薬自体を苦痛とは認識していない。むしろ楽しい。

(蛇足。禁断症状という言葉は完全に断った時に使う表現で、完全に断たずとも「不足」すれば症状が出ることから現在は離脱と言う。Wikipediaに詳しい)

どんな症状が出ているかというと(本当はもっと増えているがあまり断薬する人を脅しても何だし。グラグラの状態で書いたものなのでちょっと不正確でもある)、

「頭痛、悪心、胃痛、腹痛、強い眠気(1日続く)、めまい、耳鳴り、身体が動かせない、注意力散漫、思考力低下、緊張がとけない(頭が興奮してる感じで、座ったままだけど何かせずにいられない。眠気が凄いのに寝られない。夜遅めに疲れ果ててからやっと寝られる)→そのためか休んでいられない、すぐ体力が尽きる感じで考えたり目を開けてたり字を書いたりほんとに簡単なことができないです。
かなり長時間休んでやっと少し普通のことができますがすぐできなくなるし、何をするにもかなりしんどいです。入院してもいいと思い始めたくらいきついです。」
(減薬3日目に主治医に送ったFAXから一部転載)

主治医からすぐに返信が来た。これ。
f:id:shinovieshinovie:20170427154816j:image

いや、ちゃうねん。先生、ウチそういうつもりで書いたわけやあれへんねん。ええけど。

……苦しさのあまり、意図が伝わらない文章を送ってしまったのだ。(私からの全文は超長いので割愛)

今から思うと、私はこの状態が何なのか、もしかしたら離脱症状ではないかとやっと思いついたので、その特定ができるかということが聞きたかった。そして、この状態が何であるにせよ、支援機関とうまく行っていな過ぎるため「この状態では彼らに対応できないし、私が説明なんかできた状態でもなければしたって聞かないので先生から言って欲しい」ということが言いたかったのだが、頭が働か無さすぎてそこまで言葉が出なかった。(なお、支援関係者に主治医から説明なり行う段取りは既に組んである。それが来月半ばなので、今困った、と言いたかったのだった。嗚呼)

私は事前に離脱症状が起きる可能性を全く説明されていなかったし、
「リバウンド(断薬、減薬、治療中止などで病状が悪化すること。離脱症状と意味が同じかは調べたが見つけられなかった)を防ぐために少しずつです。(私がバカスカこの薬は減らせるか、あれはいらないのではないかと言いまくったので)少しずつ、急がないこと(笑)」
と念押しされていたので、何か症状が出るという予測をしていなかった。というか離脱症状とか失念してました。断薬にたどり着くまでの思索と模索と主治医に説明するまでの準備が必死すぎてそこまで頭回りませんでした。嗚呼
_| ̄|○

4月22日土曜日から減薬を開始したが、内容はFAXのように

リボトリール1mg→0.5mg
セパゾン4mg→2mg
柴朴湯→中止(これはあまり関係ないので切ることにした)

私は「え、これだけ?」と思ったくらいで、何か起きるとは思わなかったのだ。
先生、ひと言言っといてくれれば、その。ねえ。

ともあれ、意図せず主治医から激励のFAXを受信したのである。
思うに、こういう医者にかかっている人なんてほぼいないのだろう。

****
22日に診察に行ったが、私は開始早々「断薬することにした」といきなり告げた。誰かがやめろと言うんだけれどとか、やはり薬ない方がいいですよねとか、相談したのではない。もう決めたので断薬のために減薬する内容を話しましょうというわけだ。

主治医からは笑顔が返ってきた。
私は自分の考えを話したが、主治医が意見を挟んだりはせず、ほとんどニコニコして聞いていた。
プリントアウトした前回の記事も読んでもらった。

自分が自分のためだけに決めたから協力せいと言って嬉しがられるのは、それは私も嬉しい。が、やはり主治医には私が誰かを喜ばそうとか誰かの顔色をうかがって取った言動でもないし、そういう無理をしているわけではないことが即伝わったのだと思う。
****

日々しんどい中でどうするか、自分で様々なコントロールをする感覚と力がついていくのが楽しい。こんなことだったのか。症状はつらいが何も頑張るとか気合いとか、そういうものは特にいらない。ずっと原因不明の体調不良に悩まされて来たのだ。理由がわかっていて、消失までのおおよその期間も見当があるのだから基本的に大したことではない。たださすがにきつい時もあるので、少しサポートになってくれる人達はどうしても必要だ。気をまぎらしたいだけだが。

今の私は本当の寝たきりに近く、1日の間で「使い物」になる時間もエネルギーも短く少ない。が、もう納得して決めてしまったことであるためか、減らした薬を元の量にしたいとか、そんなことは全く念頭になかった。なので、主治医のFAXには笑ってしまった。(どんな顔で打っていただろうかということも目に浮かぶので……形容しがたい笑顔なんだけど)

もちろん、気持ちはメチャクチャに嬉しい。こんな主治医にずっとおんぶに抱っこで来たのだけど、「自分で歩くから下ろして下さい」と言い出した訳だ。いきなりはできないので、徐々に二人三脚になって行くことだろう。

薬をやめることにしたというのは、私にとってはそういう象徴というか、印のようなものだ。

相談という相談は結局せずに1週間くらい考え続けて(本当、その期間はいつでもどこでもずっと筆記具に書きまくって考えまくりだった)前の記事ができたのだけど、あれを書き上げてから感覚が変わって来たことがある。

私は過去の記憶がほとんどなく、極めて断片的に思い出すことがあってもそんなに実感も伴わないし、すぐに頭から消えてしまう。だからあまり詳細に昔の話ができない。それ自体は今も同じだが、過去の自分と今の私が繋がった感じがするのだ。

それと同時に、「感じること」ができるようになりつつあって、理屈だけで物を言うこと考えることが気持ち悪くなった。正確には「元の感受性を取り戻しつつある」だろう。いくら何でも昔からあそこまで不自然な状態だったのではない。理屈屋ではあったが程度が全然違う。

長いが経緯を書いてみる。読みやすく構成する余力がないので、面倒であれば飛ばしてもらってもいい。

この状態が狂っていたことについては、数年前のトラウマ体験が引鉄だと断定する。5年間、私は現実からどうしても逃避せねばならなかった。

もちろん下地には虐待体験があるし(※WHOでも正式に認められるのは今秋らしいが、「複雑性PTSD」という状態である。病名に頼るとろくなことがないので普段あまり使わないのだが、名前がないと意味が伝わらない場合もある。この場合は言った方が正確に伝わるだろう。これも詳しくはWikipedia、できれば英語版で読まれたい。Google翻訳で読んでも元が硬い文章なので割合正確に訳される)、発達障害の特徴も強くかなり偏りが大きいらしいのでそちらも色々と邪魔をした。

何よりこうもガッツリとPTSDになってしまっては私から何があったかなど言えたものではないし、勇気を出して明かした人達の反応で、これがどれだけすさまじい状態を起こすものなのか全く伝わらないしわかろうとしないことがわかって、私から話したりはおろか、人も世界も何も余計に、全く信じられなくなった。克服した人達もいたが、その人達は既に別の世界の住人であった。

私は結局誰からも怒られているか脅されている感じしかなかった。支援機関と全然噛み合わないのはこういう背景だろうし、私は直後に支援機関から2年間恫喝としか言えない行為を受けていたから(違法行為だったがもう時効のはずだ)、寝込んで当たり前だった。

「魂の殺人」とはよく使われる言葉なのだが、いくら陳腐に聞こえようとも私がされたのはそれでしかない。それは私から見れば世界中の「共犯」なのだ。

私は世界から分断「された」。自分が自己防衛のためにしたのではあるが、はじめから私が何も行動しなかったなんてことはない。あちこちに相談したりしてはいたし、自分でどうにかできないか調べまくって考えて、だけどうまく行かなかった。
これが私のせいだとはとても思えない。誰がどう言ったって、あの状態であれだけ動いて誰も助けてくれなかったら誰も信じられなくて当たり前だし、それも含めて自分でした試みが全部失敗したら、いくら私に故意の攻撃を加えて来た相手の目的を阻止し逃げ出すことに成功した所で、そんなこと大したことではなくなる。自分が悪いのだと、自分は否定されるべきゴミくずか何かだと感じるのは、今思うと当たり前に過ぎる。その後も「故意の攻撃」を別の人が引き継いでくれれば完璧だ。

エネルギーには限度がある。日本語に拒絶反応が出始め、身体が動かなくなり、色んな症状に見舞われ、自力で解決なり行う気力は尽きた。周りの誰もが敵の状態になり、SNSで外国の人としかほとんど話せなくなった。そこが私の仮の居場所になった。日本人と日本語で話すよりはマシだった。私はその「世界」で、それまでの私とは全く違う人間になっていった。英語力がさして高くもなかったことも幸いしたのだと思う。日本語では私はしっかりしたように見えるから、余計に信じてほしいことこそを信じてもらえないのだ。こんなに具合が悪いことすら。見ればわかるようなことまで全部信じてもらえないなら私が信じる力だって損なわれ続ける。

この状態がいつまでも保つわけがない。
3回致死量の大量服薬をしたが何故か死ななかった。
今は実際に死にそうな状態でやっと救助を求めたあと何時間も放置された経験があるためか、希死念慮が起きることはかなり稀になり、起きてもまた失敗したら後が本当にきついのでどうも踏み切るに至らない。

それでもそんな経験だけで生き続ける気になんかなるほど簡単なわけでもない。生きていることにそもそも理由なんかない。生きる気になる気持ちは元々作らなければ存在しない感覚なのだ。
通常はそれが作られる条件が大体揃うので生きようと思うだけだ。そうでなければ、生き続けるなんてとても大変なことを続ける気になんかなれない。

絶望しないにはそれなりの条件が必要なのだ。
が、普通、難しいことではない。単純に言うと、いいことがあれば七面倒臭いことはいったん忘れるようにできている。問題はいいこと、気分が紛れることを継続的に起こす必要があることだ。
内容は色々だが、身体的な体験がいいと思う。思考というのはどういう方向にも行ってしまい、私のような悪条件が重なっている人間だとろくなことを考えない習慣が強固についているので、ずーっと嫌なことが頭を支配する傾向になる。絶望するための回路ができている感じだ。

【ここからはおまけだが、辛いのが嫌なら、あまり不健全な体験で快感を得るのを使うのはやめておいた方がいいだろう。悪いことだからやめろというのではないし、無理にやめる気になっても文字通り無理だ。
不健全なことというのはある意味では不自然だから不健全と言われるだけだ。時代や文化でどれが不健全かは細かく変わるが、明らかに身体に毒だということがわかっていることよりも、単純に運動することとかが良い。

不健全と言われることをわざわざ使うのをやめておいた方がいいと思う理由のひとつは、面倒くさいことになるからだ。否定されて感情を害されたりして余計に依存したり、反論を考えることになったり、自分を責めたりする。ものすごく面倒だ。
同じ依存するなら自傷行為やセックスや薬物やギャンブルや煙草よりはマラソンやらヨガやらのスポーツ(何でも良い。格闘技など発散には良いし)とか軽作業やらの方がその意味で「面倒じゃない」のはわかるだろう。
(第一、脳内物質の出方や脳内がどう機能しているかが全然違うのだが、「面倒くさい」のでもうちょっと元気になってからにする)】

で、だ。
最後の方がいきなり何言ってるのかと思ったかも知れないが、こういうことが「感触」でわかってきたし、昔の私が考えたり感じたりしていたことを思い返せたので書いてみた。

わかってきたと言うのか思い出せたと言うのか微妙だが、過去の自分と接続し直し始めた感じがある以上、まともな変化が起きているのではあると思う。

―――――

このくらいで今回は切り上げる。今回はさらに全然読みやすくないし要が何だかぼやけてしまったが、8割方離脱症状のせいなのでもう諦めた。

―――――

ついでに、こういうものが無料で配布されている。偶然拾ったのだが、(症状がすごくなってからだからあまり読み込めないが)通称「アシュトンマニュアル」と呼ばれる、ベンゾジアゼピン薬をやめるためのマニュアルPDFで、114ページある。
http://www.benzo.org.uk/amisc/japan.pdf

薬や医療がどうこう言う話は、どうも剣呑というか喧嘩腰になりがちである。感情を煽るような押しつけがましい表現で物を言う人が何と多いことか。
だから私はそういう手合いの話にはウンザリして来たし、脅迫しているようにも見えるし、何故わざわざケンカになるようなことを言い合うのか理解できないでいる。内容がどうあれアレでは不毛だと思う。不愉快過ぎて減薬前からストレス性と見られる不調を来たしていて、そのためもあってほとんどネットに行けないのだ。

そこでである。

何故このマニュアルがこんなに長いかというと、薬をやめる人のあらゆる不安を取り除く試み、理性的で優しさに満たされた知識の解説、患者自身が「主人公」であることを丁寧に説き、無理を強いるような表現をしないで、挫けないように勇気づけ励ます試みで書かれた文章だからだ。冗長なのではない。

さらに少し古いマニュアルなので少々情報を検索したうちの一記事を付す。

アシュトンマニュアルに信憑性はある?多くの批判が集まる理由
http://xn--bfv610btf455cba.net

「さああなたもこれで断薬しよう!」と言いたいのではない。それはあなたが選ぶことで、私があなたの人生にそこまで口出しできるわけではない。
(そもそも今そこまで頭が回らない)

私が平気な理由のひとつがこのPDFの文章なのだが、長いしちゃんと読める状態でもない。それでも、「感じること」ができる温かみが確実にある。その私とこの著者の「感受性」について、元気になって行った時に、また書けると良いと思う。

 

あああ。本当眠い。

薬とお別れして行く、という決断

断薬に舵を切ることにした。
週末の診察で主治医と話してくる。

私はそもそもあまり薬物療法が効果を上げていない。
主治医と私は精神科薬を時間稼ぎの道具と認識しており、いずれは薬をやめていくものと思っている。

が、私の場合は薬が効かないことが多すぎた。
それでも今まで生存できたのは、薬学も修めている主治医が本当に慎重に上手に、私の様子をチェックしつつ、薬物療法と現実的な助力を続けてくれたからであろう。

私自身にも何か力はあるかも知れないが、私はそれを認識できていない。

少し私の事情を話す。

私の実家では、私が主体性を持つことが絶対に許されなかった。私が何かしたがったり欲しがったりすると、母は全力で嘲笑した。父は必ず理由を求めた。ほんの子どもの私が大の大人を説得することが義務付けられたが、極めて客観的で高尚な理由でなければ聞く耳を持たれなかった。「面白そう」「やってみたい」では、嘲笑と黙殺か突然の意味不明な癇癪が返ってくるだけだった。

私が自分のために何かしたいとか、ただ楽しむことに罪悪を感じ、大義名分がなければ(主には他人の役に立つこと)生きている価値がないと感じるのはこれが原点だと確信している。わがままだの被害妄想だの出て行けだのはしょっちゅう言われたし、何度も放置されて死にかけたし、親が気に入ることをし、幸福を演じることが25歳で実家を出るまで私の義務だった。

転機になりかけたのが大学に行ったことだった。

大学に行くこと、志望校、志望学部学科をきめ、浪人中の予備校探しをし、大学生活を途中まででも送った時期は、私のここまでの人生でただ一時期だけ、私の意思で私が動いて成し遂げた成功体験を象徴する期間である。
その頃の私は病んではいたが、「したいことをして楽しく過ごす」ことをしていた。成績は、高校までだと「よくわからないのに良好」だったが、大学では自分の手応え通りの結果が出た(私は予備校までは勉強の仕方も勉強というものが何だかも理解できなかった)のでのめり込めた。
それまで全くできなかった友人ができ、周り中が私に負けず劣らず変人だったし、好きにしても誰もとがめず、いくらでも活発に動いた。寛容さ寛大さがいかに大事かよくわかる。
有名大学だから就職が安泰とかいう意味ではなく、将来を楽観していた。すぐそばに自分とよく似た特徴を持つ友人がおり、学生のうちから起業して生活していた。彼は今思えばアスペルガーとしか思えないが、私も何か手に職を持つことで生計を立てる気になったお手本だった。彼も私も上手く雇用されて働くことができなかったが、なら自分ができることで稼ぐのが自然の流れだと普通に思っていたのだ。

それでも色々と邪魔が入って今に至る。

私の問題点はいくつかある。現実を認識できていなかったこと。自分の成功体験を実感できなかったこと。そのため、人生の支えになる満足感という大事な感覚が養われなかったこと。そのせいでずっと空虚感があること。それを自分が満たせるとは思っていないままだったこと。だから、他人に満たしてもらう感覚でいたこと。その空虚感が満たされない限り生きていける気がせずにいること。

他人に満たしてもらうというのは、私が自分を顧みず大事にせずに、人にとって価値ある存在であろうとすることを含む。それが主たる要素なのかも知れないが、つまり、他人に自分の存在価値を認めてもらって初めて自分が存在しても良いと思う感覚だ。これは親に仕込まれた通りの生き方である。要するに親の代わりに承認欲求を満たしてくれる人をずっと求め続けているのだ。

これは全く主体性を欠く感覚だ。純粋に自分の意思で自分のために行動して成功体験をして来れば満足とか達成感とか誇りとか自信というものを積み上げて来れただろうし、それは楽しいだろうし、くじけても踏み出せる希望の力になるだろう。

大学に限らず、いくつも成功体験の類いは経験したはずで、部分的には記憶がある。が、上記のような感覚にはならなかった。

妨害要素は数点あるが、周囲を見たり話したりするに、そういうものがあっても、生きて来てしまえばだんだんと前向きとか何とかしようとか、またはどうにかなるとかいう感覚になって行くことがどうも自然の流れのようだ。かなりの悲惨な体験があってもだ。

私の場合、主体性を育てることができなかったのが原因ではないかと思われる。

その原因を引き起こしたもののひとつが、薬だと考えるに至った。

述べたように、私は薬がろくに効かない。が、ある程度の状態にすることまでは可能だ。だから死ななかったのだが、実は自殺未遂は相当繰り返している。それで死ななかったのは「偶然」でしかないそうだ。

物心つく頃には死を理解しており、私は人生通して希死念慮がない時期がなかった。実家の環境から、私は基本的に絶望したまま生きていた。
通院開始は浪人中の18歳で、まだ実家にいた。そして私にとって投薬は最低限死なない程度の効果をもたらすに留まった。が、それだけに、服薬をやめることができなかった。死んでしまっては元も子もないからだ。

薬を時間稼ぎのものと考えていたが、それは薬効があって、成功体験を積むうちにいつの間にか薬を必要としなくなるという感覚だった。自分には大きな効果は出ていないが、何とか薬で精神状態などをコントロールしていた。これは薬効と言うには満たない水準でだ。

薬があって初めて成功体験がある、という状態だ。

薬がどれほど重要なのか考えてしまう事例がある。

数年前、私は10年以上続いたパニック障害を考えることで治した。症状が出る理由を考えて理解したら、消えたのだ。以来その時用の頓服薬はほとんどお守りと化して、滅多なことでは飲まなくなった。

今も過呼吸くらいは起きることがあるが、薬を飲むことは非常に珍しくなった。

更にこの話は私が何かおかしいと思われる内容にもなる。

この克服は普通の患者などにとっては大したことらしく驚かれるのだが、私はほとんど達成感とか自信とかいうものを感じていない。

そんなことは私にとって力や支えにならなかった。達成したのに、成功したのに。それが悲しくて絶望感を覚えることはあるというのに。

絶望までするようになったのは最近だが、このように、絶望までする理由がないことで希死念慮まで出る。確かに今の状況はキツいし、疲れのためかと思っていたが、大まかに見れば私の人生は好転し始めているし、この精神状態になることがあまりに頻繁すぎる。

薬でコントロールしているということは、自力ではないということを思った。
元々主体性、自分の意思がないところへ、ギリギリ死なないように薬で精神状態をコントロールして来た。無理矢理なのだ。私の手柄じゃないのだから私が成功した感覚なんかない。自分でどうこうしようとして頑張ってできたのでもない。これで何か気分よくなるだろうか?なるわけがない。
人生で1回だけ本当に満足したことがあるが、自分がやりたくて自分でやり切ったからだろう。大変強烈な体験で、あれが断続的にでもあれば、絶望する意味がわからないだろう。薬だってとっくに卒業しているはずだ。

そして私の処方は多種多剤である。ずいぶん減ったが、まだ多い。
これが脳にずっと影響していることは間違いないことで、ギリギリ死なない程度の効果なら、もういらないのではないか。さして効いていないのだから、ないほうがいいに決まっている。上に書いたようなことが実際にそうなら、主体性が育つのにも邪魔だし、それでは満足感を覚えることは難しく、だったらもう実家ではないここでも希死念慮に悩み続けることは別に突飛なことではない。

自分以外に検証材料がないから、ここまでにずいぶん時間や思考力を費やした。他の人の服薬がどうとか言えるほどの情報はない。

私は薬に向かないタイプだったのだ。でも、周りに誰もいなかった。いたのかも知れないが、ほとんど去って行った。残っている人には「私が欲しい優しさ」はない。誰が悪いとかいう話はあまり意味をなさないが、はっきり私を害した人間だけに、私だけは激怒していいはずだ。それはいつまでも恨むためではなく、自分のこれからのためだ。

ただそれだけだった。

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読みにくい文章だったことと思います。自分で整理するために数日かけて考えたのですが、まだ仮説に過ぎません。また、21〜22年間、薬に依存して来た状態だと言えますから、現状の環境があまり良いものではない今、正直に言えば薬をはっきりやめていく(まずは減らすわけですが)ことに懸念や不安がないと言えば嘘になります。

ただ、現実の世界での友達に言われました。
「そうやって生きて来なきゃならなかった状態で断薬って本当の『決断』だよね。できたらすごいことじゃん!きっとすごい自信になるよね!」

蛇足的に見えるかも知れない私の家庭事情と人生の話も書いたのは、私にとって薬をやめようという結論を出したことの重さや意味をきちんと確認したかったからです。

事情(ここに書いていないことも)をほぼすべて知った上で何の批判も否定もせずストレートに優しい言葉をくれて力になってくれている友達に感謝しています。

私には、そういう経験がほぼありませんから。

あっても、ほとんどの人と上手くやって行けず、去って行きました。繰り返しになりますが、私が自分を責めても意味がありません。過ぎてしまったことだし、誰が悪いとかいう話をしても仕方ないからです。

たった数人のために私の人生は40歳の今も確実に滅茶苦茶です。それは、私の中でケリをつけるまでは、許す気にはなれないのです。そのための取り組みのひとつが、薬に頼ることをやめていくことなのです。